コラム「はいかい漫遊漫歩」  松谷富彦

 

第40話  紅葉燃ゆ旅立つ朝の空(くう)や寂   寂聴

1973年、天台宗東北大本山中尊寺で大僧正、今春聴(作家、今東光)を師僧に得度した作家、瀬戸内晴美は、法名を師の一字を貰い、寂聴と名乗ることになった。尼僧兼業作家、瀬戸内寂聴の51歳の再スタートだった。

得度式のとき、ふと頭に浮かんだのが掲題句。「俳句を作ったことがないのに浮んだ言葉」と言う。その後、東京女子大の後輩、黒田杏子の勧めを受けて作句を始めるが、〈 紅葉燃ゆ…〉が文字通り寂聴俳句の第1号詠句となった。

俳人、齋藤慎爾との対談「私の人間歳時記」(「俳壇」2006年12月号)で、寂聴は〈 石川達三さんがその句を新聞に取り上げてくれたんだけれど、「ソラや寂」と読み、間違って解釈したの。ルビを振っておけばよかったと思った。〉と。

寂聴の自選代表句〈 御山(おんやま)のひとりに深き花の闇 〉

〈 寂聴―「御山」は天台寺(筆者註:中尊寺貫主の今春聴が住職を兼務し、寂聴が後任を務めた寺 )のある山のことです。…夜、トントンって戸を叩くから人が来たかと思ったら、タヌキやキツネ。そういうときに自然にできた句です。〉

久保田万太郎が主宰する文壇の「いとう句会」に作家仲間の木山捷平に連れられて行ったときの話。〈 寂聴―新しい人は自己紹介しなきゃいけないというので、「私は木山捷平さんの弟子です」と言ったら、みんながどーっと笑うのよ。  齋藤―木山さんは万太郎の弟子なのに、瀬戸内さんが「木山捷平の弟子です」と言ったものだから。  寂聴―そのときの句会で一番点が入ったのが、万太郎の「門下にも門下のありし日永かな 」なの。〉(「俳壇」2008年9月号 対談「遊行の文学」)(敬称略)

寂聴句から

日脚のぶひめごともなき鏡拭く
半世紀戦後の春のみな虚し
あかあかと花芯のいのち白牡丹
雲水の花野ふみゆく嵯峨野かな
仮の世の修羅書きすすむ霜夜かな
生ぜしも死するもひとり柚子湯かな

 

第41話 “風俗の伝道師”吉村平吉さん

風俗の世界にどっぷりと身を漬け、2005年3月、吉原に近い竜泉の独り暮らしのマンションで84年の生涯に幕を引いた風俗ライター、“平さん”こと吉村平吉さん。野坂昭如の小説『エロ事師たち』のモデルである。

平さんが、敬愛していた荷風そっくりの孤独死をした翌年から、付き合いのあった面々7、8人が春と真夏の2回、平吉忌と称する偲ぶ会を続けている。春は桜の咲くころ、彦根藩主、井伊家の菩提寺、東京世田谷の豪徳寺の墓地に眠る平さんに花と線香を供えた後、うなぎ好きだった故人にあやかり松陰神社の名店「一二三」で供養、夏は吉原の遊女の“投げ込み寺”で知られる三ノ輪の浄閑寺に参った後、浅草田原町のどぜうの「飯田屋」で泥鰌鍋を突つく習い。

平さんは、生前つねづね「私が死んだら浄閑寺に投げ込んでほしい」と言っていたが、赤坂の有名骨董店のぼんぼんは前述のように井伊家の墓所に接した吉原家累代の墓に眠ることになった。もっとも亡くなる5、6年前に会葬者約百名を呼んで行った「生前葬」では、浄閑寺の老住職に引導をわたされたから、望みの半分は叶えられたことになる。

早大を終えて内蒙古で現地入隊、中国各地を転戦。敗戦で帰国後、エノケン一座の文芸部へ。著書『浅草のみだおれ』の推薦文で友人の直木賞作家、田中小実昌(故人)は「ヘイさん先輩はレヴュー青年、ぼくはすこしおくれたストリップ青年、先輩は娼婦たちにも慕われた。」と書く。その昔、台東区議選に立ち、応援の野坂、田中らと「苦界から区会へ」と訴えたが見事に落選。物静かで礼儀正しい風俗派は、晩年は自称「アワ中」、ビール一筋だった。

荒涼と荒川鰻裂いて貰ふ細見綾子

泥鰌鍋のれんも白に替りけり大野林火