コラム「はいかい漫遊漫歩」    松谷富彦
(118)糸瓜棚この世のことのよく見ゆる  裕明

   慢性骨髄性白血病を発症、2004年末に45歳で夭折した俳人、田中裕明について書く。
 掲題の句は、遺句集となった第5句集『夜の客人(まろうど)』の掉尾に詠者自らが置いた句である。『俳句の水脈を求めて 平成に逝った俳人たち』(角谷昌子著 角川書店刊)で、角谷は〈 不思議な雰囲気を醸し出す〉句だと言い、子規を引き合いに次の鑑賞を記す。
  〈《糸瓜棚》からは《この世》を隈なく見渡すことができる。あたかも幽体離脱して魂が身体を離れ、糸瓜とともに宙に漂っているようだ。「糸瓜」からは、絶筆《をとゝひのへちまの水も取らざりき》と詠んだ子規の境涯を思い浮かべる。
 死病と闘いながら積極的に俳句を作り続けた子規に、裕明は、自分の過酷な境遇を重ねたのかもしれない。《糸瓜棚》の句には、死の畏れや拒絶、生への執着や焦りではなく、生死の境を超越する澄んだ眼差しがある。〉と。
 この句集に搭載の句は、すべて白血病発症後の詠句で、その清澄さが際立つ。

空へゆく階段のなし稲の花

詩の神のやはらかな指秋の水

くらき瀧茅の輪の奥に落ちにけり

くらければ空ふかきより落花かな

見返ればみづうみくらき門火かな

 〈 どの「暗」も、必ずしも不吉な兆しではなく、明暗、陰陽、晴れと褻(け)のように対比的かつ効果的に用いられており、「暗」には、照らし出されぬ安らぎさえ感じられる。〉と角谷。
  ちなみに同句集のタイトル「夜の客人」について、俳誌『澤』2008年7月号に搭載の「俳句史のなかの田中裕明」で俳人、宗田安正は、裕明が生前、「夜の客人」とは自分に巣食った病気(白血病)のことだと、妻で俳人の森賀まりに話していたと記している。
  ここで裕明の略歴をかんたんに書く。大阪市生まれ。大阪府立北野高校在学中に短詩型同人誌「獏」に参加。18歳のとき、島田牙城に誘われて波多野爽波の「青」に入会。初投句の1977年7月号に下記の3句が搭載される。

紫雲英草まるく敷きつめ子が二人

葉桜となりて細木や校舎裏

今年竹指につめたし雲流る

 京大工学部に進学後、京都句会で初めて師の爽波に対面。在学中に「青」新人賞、「青」賞受賞。大学卒業後、村田製作所に入社。同年、「童子の夢」50句が第28回角川俳句賞を受賞。20歳での最年少受賞記録は、いまだに破られていない。(敬称略 次話に続く)

(119)蟻地獄赤子に智慧の生まれけり   裕明

 2000年(平成12年)、41歳になった田中裕明は、若い俳人仲間の岸本尚毅、田由、妻の森賀まりらに呼び掛けて「ゆう」を創刊。
  裕明は創刊号で「季語の本意と写生を軸に」と謳い、「理屈でわかる句は詩としての次元がひくい」と断じた。そして毎号、「できうる限り迅く、詩の中心を言葉で射抜くこと」を目指した詠句に励んだ。〈 詩としての俳句の鮮度を大切にし、言葉の有効活用を日常いかに心掛けていたかがよくわかる。〉と角谷昌子は、『俳句の水脈を求めて―平成に逝った俳人たち―』の「裕明の項」で書く。
  掲題句〈 蟻地獄赤子に智慧の生まれけり 〉や左の2句に見られる大胆な取り合わせは、師の波多野爽波譲りの作句手法。爽波句と並べてみる。悉く全集にあり衣被裕明 雪舟は多く残らず秋蛍         

 骰子(さいころ)の一の目赤し春の山爽波

炬燵出て歩いてゆけば嵐山         

  角谷は、「蟻地獄」句について、〈 季題の本意を重視する「ホトトギス」を師系としながら、裕明は、季題意識を鮮やかに裏切る。深見けん二を自分には「こんな句は出来ない」と驚かせた作。普通だったら、「風光る」「若葉風」などの輝く季語と《智慧》を取り合わせてしまうが、裕明は、《蟻地獄》を据えて、智慧を得るための「赤子」の貪欲な吸収力を読者に印象づける。〉と記す。
《 もの言はぬ旅のつれよし蝉の殻 》の温和・信頼と儚さ・不安、《 人入れて家灯りけり蟻地獄 》の明暗、…それぞれの対比が際立つ。裕明の季語の選択により、不思議な世界が顕現するのを何人もが指摘してきた。堀切実は芭蕉の「とりはやし」(効果的媒介)の挑戦者として裕明を挙げている(「俳句」平成29年12月号)。〉とも角谷。

詩の毒に中りし人や曼殊沙華

秋風の十七音詩にくみけり

生涯は文字を書くこと秋の蝉

と俳句文芸に懸ける思いを句にした裕明は、残された時間の余りにも少ない「発病」を真正面から受け止め、〈 爽やかに俳句の神に愛されて 〉と解脱の句を詠む。そして、〈 空へゆく階段のなし稲の花 〉の句を遺して天に昇って行った。