コラム「はいかい漫遊漫歩」 松谷富彦
(148)長らへてわれもこの世を冬の蠅 永井荷風
『ふらんす物語』『腕くらべ』『濹東綺譚』『断腸亭日乗』などの作品で知られる作家、永井荷風は、81年の生涯に800句を越える俳句を遺した俳人でもあった。表題句は、随筆集『冬の蠅』の題名に採られた原句である。ちなみに岩波書店版『荷風全集』第20巻の「俳句」の項に句集『翠風集』(明治32年刊)から24句、同33年5月号『活文壇』誌から10句、同じく同月号『文藝倶楽部』誌から8句が収載されている。
荷風は20代の初めに巖谷小波の句会「木曜会」に入り、小波から俳句の手ほどきを受けたことは知られているが、詩人、俳人、俳句評論家の加藤郁乎は、絶筆著書となった『俳人荷風』(岩波現代文庫)に〈 俳人荷風として自覚した句作りに精進するようになるのは大正4、5年からであろう。〉と書く。少し長くなるが引く。
〈 花柳小説の名手として本領を発揮するにとどまらず、50年にわたる友誼風交をむすぶ俳人江戸庵庭後のちの籾山梓月(コラム子註:本名、籾山仁三郎。高浜虚子から俳書堂を譲り受け、籾山書店を経営、俳句総合誌『俳諧雑誌』を創刊、主宰。時事新報社、昭和化学などの取締役も務めた。)を知るのもこの時分からである。…明治43年5月に創刊した「三田文学」以来の付き合いで新橋ほかの茶屋遊び、また代地河岸や築地界隈での常磐津、清元、薗八などの教坊お浚い会などに出入りして招飲遊蕩に明け暮れし、庭後庵に出入りするうちに鍛えられて風流俳人が誕生した。〉と。
その証の句として著者、郁乎こと俳号・郁山人の上げる6句から4句を引く。
売文の筆買ひに行く師走かな
亡八に身をおとしけり河豚汁
春行くやゆるむ鼻緒の日和下駄
寂しさや独り飯くふ秋の暮れ
句に続けて郁山人は書く。〈 いっぱし町方の俳諧師ぶり、消閑の具とだけは云いきれぬ独自の俳趣は天与のたまものであろう。〉そして、荷風俳句は芸者遊び、音曲手習いに材を採ったものばかりではないと言う。
〈 東都旧地の散策に日和下駄を鳴らし、何にもまして四季変遷の移ろいに目を細める日記魔の作家は昨日は今日の昔を十七文字に書き留めて置く風である。…散人にとってそれぞれは『日乗』とひとしく虚実書き付けの徒し事でよかったのだろう。〉と記し、学匠詩人と尊称され、英文学者、溝五位の号を持つ俳人でもあった日夏耿之介が、荷風研究著作『荷風文学』中の「荷風俳諧の粋」で〈 紫陽花や身を持ちくづす庵の主 〉の句を、〈ほとんど荷風氏の悉くの随筆のなかさながらの口跡で、やんわりと直截に自己を談ってゐる佳句の雄の雄たるもの〉と絶賛している点に触れ、溝五位の俳号により句作俳論を能くした詩人による精一杯のオマージュ、的を射た俳句鑑賞だと書く。
〈徹底した俳諧散策を果たしたのが『断腸亭日乗』である。〉と郁山人が記した通り『日乗』のあちこちに自句がさりげなく散りばめられている。なお、郁山人は『俳人荷風』の「あとがき」に荷風句〈わが庵は古本紙屑虫の声〉を入れ、執筆途中で逝去した。享年83歳。合掌。
(149)『笑う子規』(ちくま文庫)が面白い
松尾芭蕉も正岡子規も名句、佳句ばかりを詠み続けたわけではない。駄句もあれば、破礼(ばれ)句、狂句に近い句も結構数多く遺した。「多詠多捨」の俳句の習いを考えると、その何倍もの駄句、面白句が詠まれたはず。
約2万4千句を遺した「ノボさん」こと子規の遊び心いっぱいの句も拾い出したら、あるはあるは。その中の123百句を選び、松山市立子規記念博物館長を務めたコラムニスト、天野祐吉さん(註・平成25年没)が1句ごとに短くて粋な鑑賞を付け、エッセイストの南伸坊さんの俳味豊かな一筆画を添えた楽しい表題本が120年忌(平成23年)に出版され話題に。これが4年を経て文庫本で再登場、句作に疲れたときに「くすり」「にやり」はいかが。
ほんとは冒頭に搭載句〈 睾丸をのせて重たき団扇哉 〉を置いて話を進めたかったが、謹直の諸兄姉に読んでもらえぬのを危惧し、長い言い訳になった次第。ここからが本題、最後までご通読を。右紹介句の天野鑑賞は( いやらしいなぞと言う人はいやらしい。これこそ、平和の図だ。真之なら「睾丸」が「砲丸」になってしまう。)
〈 えらい人になったそうなと夕涼 〉鑑賞(「秋山さんとこのご兄弟は、えらいご出世じゃそうな」「それに比べて、正岡のノボさんは相変わらずサエんなあ」)〈 からげたる赤腰巻や露時雨 〉鑑賞〈(露でびっしょり濡れた道を、赤い腰巻をからげて女が行く。じろじろ見るな、ちらちら見よ。)〈 松茸はにくし茶茸は可愛らし〉鑑賞(松茸はたしかにうまいが、あの形が気に入らん。とりわけ、でかいのが憎々しいな。…)〈 睾丸の大きな人の昼寝かな 〉鑑賞(…褌からハミだしているあの人のアレは大きいなあ。)〈 蝶飛ブヤアダムモイヴモ裸也 〉鑑賞(…りんごなんかを食べたせいで、衣装という名の常識でからだを隠すようになっていく。りんごじゃなく、柿にしとけばよかったんだ。)
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