コラム「はいかい漫遊漫歩」 松谷富彦
(88)春窮やルオーの昏き絵を展く 火原 翔
反写実的、幻想的、暗喩、提喩、換喩、多彩なイメージ表現で寺山修司、岡井隆とともに「前衛短歌の三雄」と呼ばれ、昭和30年代以降の前衛短歌運動に決定的な影響と衝撃を与えた歌人、塚本邦雄。三島由紀夫、中井英夫に絶賛された第一歌集『水葬物語』を皮切りに85年の生涯で80冊を越える歌集を遺した塚本は、句集も『断弦のための七十句』など7句集を上梓している。
本題に入る。1昨年(2016)、日本現代詩歌文学館(岩手県北上市)で開催された「塚本邦雄展」の折、収蔵の遺族寄贈の遺品の中から『火原翔 俳句帖』と表記された大学ノートの自筆句稿が館員によって偶然発見された。
「23年10月」の前書で始まる冒頭句が掲題の〈 春窮やルオーの昏き絵を展く〉で、〈 禁欲のアダムよ栗の花は零れど 〉〈 曼珠沙華 わが亡きのちも紅からめ 〉など。11月の項には〈 炎天に漆黒のピアノはこび去る 〉など。以下、24年3月の項まで352句続く。さらに「棘のあるSONNET」の前書で〈 三日月麺麭(クロワッサン)の絵を革命歌作詞家に 〉の冒頭句以下38句が記されていた。
平成30年2月に短歌研究社から刊行の『文庫版塚本邦雄全歌集第一巻』に第一歌集『水葬物語』、第二歌集『装飾楽句』、第三歌集『日本人霊歌』と合わせて『火原翔 俳句帖』も収載。同書から俳句と短歌を抜き出してみる。
炎天に漆黒のピアノはこび去る
革命家作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ
春窮やルオーの昏き絵を展く
春はやく肉體のきず青沁むとルオーの昏き絵を展くなり
夜の湖にむけたる背の薔薇疹
遠方にあふれゐる湖(うみ)、むずかゆくひろがりてゆく背の薔薇疹
この6例からも初期歌集が俳句帖の句に呼応、変奏されていることが分かる。
同書の「解題」で塚本に師事した歌人の島内景二は記す。〈 この俳句帖の存在によって、塚本の短歌に賭ける志は、俳句に賭ける志であり、「詩歌」さらには「文学・芸術」に賭ける志であったことが証明されるだろう。〉と。
俳句帖2年目(昭和24年)、塚本は、「青樫」の竹島慶子と結婚。当時の生活を詠んだ5句を引く。
幼妻酢をもて牡蠣を殺しけり
凍雪に雪ふりつもる夜の娶り
宍道湖のしんじつ妻にはるかなる
薔薇の芽のあやふく父となりにけり
父となる夜やさかのぼる春の潮
(文中敬称略)
(89)春の夜やいやです駄目ですいけません 井伏鱒二
俳句総合誌『俳句界』編集長を務めた俳人、林誠司さんのブログ『俳句オデッセイ』(2010年10月26日付け)から引く。
〈 冬の夜やいやですだめですいけません 井伏鱒二 これが名句かどうかはわからないが、俳句は口承の文芸だとしたら、このリズム感、面白さはなかなかのものだろう。「冬の夜や」ではなく「春の夜や」「春の夜」と表記されているものもある。どちらがいいかといえば、私の好みで言えば「春の夜」かな、と思う。そのほうが艶があるが、人肌恋しい冬の夜もいい。〉
〈 これが名句かどうかはわからないが 〉の書き出しから推察すると、『井伏鱒二随聞』(河盛好蔵著 新潮社刊)に収められている井伏作『荻窪風土記』の読後感想エッセイ「荻窪五十年」の結び〈「冬の夜や、いやです、だめです、いけません」というのは井伏さんの名句だが、そんな寒々とした冬の夜をあたためてくれるのがこの本である。〉を受けたものだろう。
井伏は、この句と上五を「春の夜や」と変えた本稿タイトル句の2句を昭和30年(1955)初め頃に詠んでいる。俳句として詠んだというより、小説中の女のセリフが五七五にシンクロしたと言うのが“名句 ”誕生の真相のようだ。
独白体小説『駅前旅館』。主人公の私(生野次平)が番頭仲間の高沢と馴染みの飲み屋「辰巳屋」で飲んでいるとき、女将のお辰が二人を残して、ちょっと店を開けた場面で井伏は、次平に次のように語らせる。
〈 高沢は…私の気が引き立つようにと、頻りに務めておりました。果ては、棚の上の招き猫を取って「こいつだって同じことだ。こいつが、好色漢か好色漢でねえか、この寸法を計ればわかるんだ」と、杉箸でもって、その泥細工の猫の鼻の下の寸法を計るやら…もう滅茶苦茶でした。そこへ、おかみさんが帰って来て、「あら高沢さん、いやですわ。駄目です、いけません」と、招き猫を奪って胸に抱きしめました。それがいかにも艶なるものに見えました。で、高沢が図に乗って、「春の夜や、いやです駄目です、いけません」と即吟して、やがてその意を解したおかみさんに、「ふふふふ」と恥ずかしそうな含み笑いをさせたことでございます。〉
林さん、ブログに書く。〈 「いやです」は相手への拒絶、それが「駄目です」で相手を嗜め、「いけません」はすでに嫌悪や拒絶ではない。だんだん心を許していっているのであろう。〉そして続ける。〈 文人俳句の良さは、近代俳句の洗礼を受けていないと言うか、江戸俳諧の良さを引き継いでいることにあるだろう。…俳句は有季定型、そして感動があるかないか、それだけでいいのだ。切れ字が二つあっても、季語が何個あっても、一人称でなくても感動があればいい。〉
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