俳句縦遊 (1)  師弟                 石井隆司 
 

 「おくのほそ道」は、出会いと別れの旅行記ともいえる。とくに、酒田を発って日本海沿いを歩む北陸路の道程、テンポの早い文章に乗って、旅先での出会いと別れが繰り返し綴られる。
   金沢に芭蕉が入ったのは、元禄2年(1689)7月15日のこと。当地の門弟たちにとって芭蕉来遊は長年の念願で、夢のような慶事であったろう。とりわけ芭蕉を師と仰ぐ一笑にとっては、心待たれる一生の大事であったに違いない。
 一笑は、加賀俳壇きっての俊英俊才。芭蕉も一笑と会えるのを楽しみにしていたが、金沢を訪れたときは、前年暮れに36歳の生涯を閉じたあとであった。
 ときあたかも盂蘭盆の日。芭蕉は一笑の墓に詣で、その兄の催した追悼会で、
塚もうごけ我泣声は秋の風芭蕉
と詠んでいる。一笑の無念、芭蕉の慟哭が聞こえてくるような一句である。
 この句によって、一笑は俳諧史にその名を刻まれることとなった。
 大石悦子著『師資相承』(平30)によれば、昭和37年12月、中島みさをは、石田波郷の到着を待ちこがれていた。
 みさをは、大正5年生まれ。夫を戦争で早くに失い、大阪西成で家業の酒商を女手一つで営んでいた。もともと脆弱な身体に過労が重なり肺結核になり、気がついたら治療法がないまでに進行していたという。
 俳句を始めたのはそのころで、昭和34年から「鶴」に投句開始。俳句のことになると、生き生きする母親をみて、子どもたちは俳句大会への出席を勧めた。
 前年の昭和36年、みさをは波郷に会いたい一心で、東京での「鶴」200号記念大会に長女に伴われて上京、しかし波郷は松山に帰省していて会えなかった。次の奈良での大会のときも、会えなかった。そして、ようやくこの年、師にまみえることができたのである。
再度逢へずみたびめにして時雨の座波郷
このときの、波郷の挨拶句。みさをの喜びはいかばかりであったろう。
 昭和38年8月、みさをは48歳の生涯を閉じる。師に会うことができたのは、何よりの僥倖であったと思う。
 大石悦子さんが俳句を始めたのは、昭和29年。子育てのため一時句作を中断し、「鶴」への投句を再開したのは、昭和42年であった。
 2年後の44年11月、波郷に会えるという期待を胸に、東京での鍛錬会に出席すべく準備をすすめていた。
 しかし、同月21日、波郷逝去。
 大石さんが、師波郷と初めて会ったのは、同月23日の葬儀の場。〈心衰弱で急逝した師の亡骸と柩の窓を通しての対面〉だった(「母のやうなる」)。
 深い悲しみのなかで詠まれた一句。
喪心や葉牡丹に紅顕ち初めぬ 悦子
 出会いがあれば、別れは避けらない。しかし作品が残り続けてゆくかぎり、師弟の交情は黙契の証として刻みこまれていく。俳句の功徳というべきであろう。