俳句縦遊 (3)  愛唱句                 石井隆司

 俳句のことを、何も知らなかった初学のころ、まず、私が試みてみたことは、「たくさんの俳句を覚える」ということだった。各種の歳時記や名句鑑賞書を買い込み、例句や引用句を何にせよ覚えていった。
 名句の名句たるゆえんや、引用句のどこが素晴らしいのかは、初学なので当然分からない。とにかく、目にふれた名句を手当たり次第に覚えていった。例えるならば、試験勉強の一夜漬けのように闇雲に記憶していったのである。
 案の定、しばらくして混乱に陥り、この試みは挫折した。意味もなく覚えた名句は、意味もなく忘れられていった。
 そこで、少し我儘になろうと思った。 新しいノートを1冊用意し、新旧を問わず自分が少しでも「良い句だな」と思った句は、作者名とともにノートにメモをしておく。このとき注意すべきは、世評に関係なく、自分の琴線に少しでもふれた句は、必ず書き抜くこと。我儘とは、そういう意味である。
 同じ作者の句が、ノートに10句以上になったら、その人の句集を読んでみる。そこでも「良い句だな」と思う句があったら、同じようにメモをしておく。いわば、自分だけの「愛唱句ノート」を作り始めたのである。
 しばらく続けてみて、ノートに書き抜くための自分なりの選句の基準が、次の4つに分かれることに気がついた。
① よく分かり、良い句だと思える句。
② よく分かるが、駄目だと思える句。
③ よく分からないが、良い句だと思える句。
④ よく分からないが、駄目だと思える句
四つのうち、②と④は、自分が駄目と思った句なので、書き抜かない。①は、自動的に書き抜いていく。
 問題は、③である。
 例えば、加藤楸邨の次のような句。
かなしめば鵙金色の日を負ひ来 
この句は、初めて見たときから「良い句だな」と思い、その感動はいまも続いている。しかし、よく分からない。鑑賞文もいくつか読んだが、自分の感動とは少し違う。何より、自分の感動を明確に説明できないのである。
 ひとつだけ分かることは、この句がいまも「金色の日」の光をまといながら、私に向かって近づいているという実感があることである。
 自分の胸にまだ入っていないが、確実にわが身に向かって飛んできている句。
 そんな直感で琴線にふれた俳句は、理解を超えて、概ね愛唱句となってゆく。
 これもまた、俳句を読む醍醐味といえるのではないだろうか。