古典に学ぶ㊶ 『伊勢物語』のおもしろさを読む(29)─ 昔男と紀有常の交友⑵─

                                                                                      実川恵子 

 地方に赴任する人を送別することは、昔男がよくやっていたことと見え、第四十八段には次のような短い章段がある。

むかし、男ありけり。馬のはなむけせむとて、来ざりければ、
     いまぞしるくるしきものと人待たむ里をば離れずとふべかりけり

 別れの宴を開いてあげようと思って、旅立つ人を待っていたのに、来なかったので、歌を詠んで贈った。
 今、わかりましたよ、いっこうにお出でにならない人をお待ちするのが、どんなにつらいものかということを、ですから私のことを待ってくれている女の家は、絶えることなくたずねてやるべきでしたね。
 戯れにみちた歌で、ここも有常のことかと疑いたくなるが、『古今集』巻十八・九六九には、
「紀の利貞が阿波の介にまかりける時に、馬のはなむけせんとて、今日と言ひ送れりける時に、ここかしこにまかりありきて、夜ふくるまで見えざりければつかはしける」
という詞書で業平の歌として載るので、有常ではなく同族の紀利貞のことであるようだ。
しかし、この詞書は記録などによると、他の人物との錯誤があるかも知れない。あるいは紀有常のことである可能性もいなめない。
 『伊勢物語』にはこのような章段を含めた麗しい友との交流を描いた章段が多数あるが、その中でも紀有常との関係は特に親密で、舅と娘婿の関係をはるかに超えた深い友情で結ばれた間柄であったことが想像される。第十六段はそういう関係を鮮明にした章段なのである。
 それにしても、なぜ東下り章段の終わる直後に紀有常が紹介され、昔男との親密な関係を強調したのか。時系列から言えば、第十六段の有常は結婚後四十年ということなのでかなりの老齢であり、昔男も二条の后との激しい恋の破綻の末に東下りをした青年時代とは異なる。むしろ安定感のある中年のイメージを感じる。それでもこの章段をここに置いたのはなぜだろうか。
 そのキーワードは、「友だち」ではなかったか。昔男にとって有常は「ねむごろにあひ語らひける友だち」であったのだ。そのことが大事なことなのだ。また、その有常は度外れの風流人で、「心うつくしく、あてはかなることを好みてこと人にもに」(心が立派で、品よく優雅なことを好むで、他の人とは違う)人であった。このような人物であることが大事なのである。かって、昔男が東下りの旅に出た時、「もとより友とする人、ひとりふたりしていきけり」とあったのを思う。そこで記したが、このようなあてもない危険な旅に同行する友がいたことは驚きのことだと述べたが、それは、昔男が単に女性にもてるだけではなく、男友だちにも慕われる人柄であったことを語っているともいえる。しかしながら、この有常なら、昔男の東下りにも同行して行きそうだとも思われる。
 つまり、『伊勢物語』の作者、あるいは編者は、昔男の東下りの旅に同行した「友とする、ひとりふたり」のうち、一人は紀有常であることを読者に伝えたかったため、東国章段の後に有常が実名で登場する話を置いたのであろう。それならはっきりと有常が東下りの同行者であることを書けばよいとも思うが、あえて書かないことで、物事をぼやかし、感じてくれる人にはわかってもらえればいいのだという気持ちも見え隠れする。