自由時間 (48)  天野  忠    山﨑赤秋

 
 ライト・ヴァース(軽い詩)という詩のジャンルがある。ブリタニカによると、「第一に楽しませるために書かれていて、しばしばナンセンスと言葉遊びを使用する、ささやかで遊び心に満ちたテーマの詩。かなりの技術的能力、機知、洗練さ、そして優雅さを要するのが特徴で、いずれの西洋詩でも重要な部分を占める」ということである。
 わが国では、それほど大きな流れを形成してはいないが、ライト・ヴァースを多く書いた詩人というと、まず天野忠の名前が浮かぶ。

 天野忠は、明治42年(1909)に京都市中京区の新町御池で生まれた。父はぼかし友禅と金銀箔置の職人。長男であったが手先が不器用で家業を継ぐことはあきらめ、京都市立第一商業学校へ進学する。この時代、古本を買っては乱読する。卒業後、四条の大丸の店員になる。大好きな映画を観るかたわら、詩を作り始める。詩作を始めてほどなく加わった文学グループは、『リアル』という雑誌を昭和9年に創刊するが、三年後に治安維持法違反で特高警察の弾圧を受け廃刊になる。天野忠は、検挙はされなかったが、警察のブラック・リストに名前がのる。それから、24年に、「コルボウ詩話会」(コルボウはフランス語で烏)を結成するまで、詩を書いていない。二十八歳から四十歳までの十二年間空白。

 戦後は、出版社につとめたり、古本屋を営んだりしていたが、26年に奈良女子大学付属図書館に定職を得る。奉職二十年定年を待つことなく年金受給資格を得たところで事務長の職を辞す。詩を書くことに専念したかったからだという。

 詩作を再開してからは数年に一冊のペースで詩集を刊行し、『重たい手』(29年)で注目されるようになり、『単純な生涯』(33年)、『クラスト氏のいんきな唄』(36年、41年に増補改版して『動物園の珍しい動物』と改題)を刊行。これらの詩集で独自の詩風を確立する。『動物園の珍しい動物』を読んでほれ込んだ三島由紀夫が、レコードにすることを企画したが、割腹自殺をしたため実現しなかったとか。

 それらの詩集でH氏賞や高見順賞の候補には上がっていたが、準全詩集ともいうべき『天野忠詩集』(49年)で無限賞を受賞する。これを読んだ丸谷才一は、朝日新聞の「文芸時評」で、「これほどの詩人を今まで知らなかったことをわたしは恥ぢた」と書き、同詩集は1974年の最高の詩集であるとべた褒めしている。その後、『私有地』(56年)で読売文学賞を受賞、『続天野忠詩集』(61年)で毎日出版文化賞を受賞。

 晩年、脊椎の検査で造影剤を注入したところ両足が完全に麻痺してしまい、車椅子生活を余儀なくされる。それから五年間、精力的に執筆をつづけ、平成5年(1993)10月28日、多臓器不全で亡くなる。享年八十四。

 では、天野忠の詩を二つ。 

 動物園の珍しい動物   

セネガルの動物園に珍しい動物がきた
「人嫌い」と貼札が出た
背中を見せて
その動物は椅子にかけていた
じいっと青天井を見てばかりいた
一日中そうしていた
夜になって動物園の客が帰ると
「人嫌い」は内から鍵をはずし
ソッと家へ帰って行った
朝は客の来る前に来て
内から鍵をかけた
「人嫌い」は背中を見せて椅子にかけ
じいっと青天井を見てばかりいた
一日中そうしていた
昼食は奥さんがミルクとパンを差し入れた
雨の日はコーモリ傘をもってきた。
                                                          (『動物園の珍しい動物』所収)
  

    伴侶 

いい気分で
いつもより一寸長湯をしていたら
ばあさんが覗きに来た。
―何んや?
ー・・・いいえ、何んにも
まさかわしの裸を見に来たわけでもあるまい・・・。

フッと思い出した。
二三日前の新聞に一人暮らしの老人が 
風呂場で死んでいるのが
日後に発見されたという記事。

ふん
あれか。
                                                                      (『夫婦の肖像』所収)

 芭蕉は晩年、しきりに「軽み」を説いた。ライト・ヴァースに通じるものがあるのかもしれぬ。
  木のもとに汁も膾も桜かな