自由時間 (54) 頑固エリート森林太郎 山﨑赤秋
江戸時代末期から明治時代にかけて、「江戸患い」と呼ばれる病気が流行した。特に江戸のような都会で患者が多かったのでその名がある。体がだるく、食欲も出ない。足がしびれたりむくんだりする。動悸や息切れがするようになり、悪くすると心不全で命を失うこともある。のちにいう脚気である。
今では、ビタミンB1の不足が原因であると知れているが、その当時はわからなかった。豆類や雑穀を食べるとよいという対症療法は行われていたが、原因については諸説紛々で、伝染病だと考える医師も少なくなかった。先進的と思われる蘭方医にも皆目見当がつかなかった。そもそも脚気はアジアの米食文化圏でしか見られない病気で、麦食文化圏のヨーロッパにはない病気だからである。
日本は弥生時代の昔から米の国である。大化の改新後の班田収授法や太閤検地により、米は経済の中心になり、権力の強弱を測る尺度になった。もちろん、食の中心も米であった。
では、昔々は玄米を食べていたかというと、そういうわけではない。籾すり技術や精米技術は極めて原始的なものでしかないから、今いうところの玄米はできなかった。普通の人は、籾だけではなく糠も少しとれた半搗き米に豆・雑穀・野菜を混ぜて食べていた。白米にするには大変な労力を必要としたので、美味しい白米を食べることができたのは貴族階級だけであった。
普通の人が白米を常食とするようになるのは、江戸時代享保期になってからのことであった。江戸や大坂の大都市では炊飯時間が短くて美味しい白米が普及していった。そして、それに伴って江戸患い(脚気)も流行していったのである。明治時代になると白米食は地方にまで普及し、脚気は国民病の様相を呈するようになった。明治天皇やお后の昭憲皇太后も脚気に悩まされ、塔ノ沢で療養中の皇女和宮の命を奪ったのも脚気であった。
精米するということ、すなわち玄米の外層の糠と胚芽を除去して白米にするということは、糠に含まれているビタミンB1を捨てていることになるからである。ただし、ビタミンという未知の栄養素の存在が発見されるのは1910年(明治43)のことであるから、誰もそれが脚気を引き起こしているとは知らなかった。
それで困ったのは軍である。徴兵制を布いて富国強兵を目指したものの、少なからぬ兵士が脚気に倒れたのである。規定では、当時の兵食は一人当たり一日に白米六合と副食(現金支給)であった。兵士は毎日たらふく白米を食った。そして、約四割の兵士が脚気にかかったのである。
軍には陸軍と海軍があったが、陸軍と海軍とでは、脚気への対応が全く異なっていた。それを如実に表わすのが次の数字である。
日清戦争(1894~95)のとき、陸軍の脚気患者数は四万千四百三十一名で、脚気により死亡したものは四千六十四名に達した。これは戦死者数九百七十七名の四倍強になる。一方、海軍の脚気患者数は三十四名、死亡したものは一人もいなかった。
日露戦争(1904~5)のとき、陸軍の脚気患者数は二十一万千六百名で、死亡数は二万七千八百名に達した。一方、海軍の脚気患者数は八十七名、脚気により死亡したものは三名に過ぎなかった。
もちろん、陸軍の動員規模は海軍よりはるかに多いが、それを勘案しても陸軍の惨状はすさまじいものである(日露戦争における動員数は、陸軍九十万人、海軍四万人)。
どうして陸・海でそんなに差が出たのか。それはひとえに兵食の違いによるものであった。陸軍は依然として一日六合の白米中心の食事であったが、海軍は白米を一日二・六合に減らし、代わりに麦とパンを増やしたのである。
海軍の医務局長に高木兼寛(1849~1920)という医師がいた。高木は、イギリス留学中に、ヨーロッパに脚気がないことを知り、白米を主食としていることが問題なのではないかと思いつく。そして、西洋食のようにたんぱく質を増やし炭水化物を減らせば脚気にはならないのではないかと考えた。脚気栄養説である。そして、練習艦の遠洋航海で実験したところ、予想通り脚気はほとんど発生しなかった。その結果を受けて海軍の兵食を麦飯に切り替え、海軍での脚気をほぼ根絶することに成功する。
一方、陸軍では、脚気細菌説が信じられていた。その中心にいたのが、十九歳で東大医学部を卒業し、陸軍軍医となった森林太郎(鷗外、1862~1922)である。二十二歳でドイツに留学し、近代細菌学の開祖であるロベルト・コッホに師事する。森が脚気細菌説に拠ったのも無理からぬところである。四年間の留学を終えて帰国した森は、日本食は脂肪、含水炭素、蛋白のいずれにおいても問題はなく西洋食に劣らぬと主張し、高木兼寛を「英吉利流の偏屈学者」と呼んで、露骨に非難する。また、米食、麦食、洋食を食べさせる陸軍兵食試験をおこなって、「カロリー値、蛋白補給能、体内活性度」のすべてで米食が最優秀という結果を導き出した。これが陸軍兵食の正当性の根拠となったのである。
なぜ米食に固執し、海軍の真似をしてみようとしなかったか。そうしていれば、日清・日露で失われた三万余の人命は救われていたのだ。脚気の原因が明らかになっても、頑固な森は細菌説を捨てなかった。
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