自由時間 (73) 空海 山﨑赤秋
東京・上野の東京国立博物館(平成館)で、6月2日まで特別展「国宝 東寺─空海と仏像曼荼羅」が開催された。会期62日間で40万人を超える来場者があったという。普段なら東寺の講堂に鎮まっている。21体の仏像からなる立体曼荼羅のうち、なんと15体(国宝11、重要文化財4)が上野までお出ましになったのだ。そのほかに国宝20点、重要文化財56点も展示されていると聞けば、仏女(仏像女子)ならずとも足を運んでみたくなる。
仏像は寺で観るに限る、と思う。今まで何年も何年も、その仏像に捧げられた何万、何百万の敬虔な祈りが衣の襞や頭髪の隙間に積もり積もっている。荘厳な堂宇のなかで仏像の前に立つと、そのオーラのようなものをひしひしと感じることができるからだ。博物館に置かれた仏像では、そうした気が薄れ、どうしても彫刻作品を見るような眼で見てしまう。それはそれで意味のあることではあるが。
2年前の「運慶展」では、仏像を独立して配置し、それぞれぐるっと一回りして観賞することができるという画期的な展示法がとられていたが、今回の特別展でも、立体曼荼羅の諸仏が独立して配置され、前から横から後ろからつぶさに見ることができると聞いて、つい足を運んでしまった。
会場に向かうと、「70分待ち」というプラカードを掲げた係員が長蛇の列の最後尾に立っている。しかもあいにくの夏日で、陽射しが強い。ところどころに傘立てを置いて日傘を貸してくれ、給水器と紙コップが置いてある、という国立の施設にしては珍しいサービスぶり。もっとも水は生温かったが。
最初の展示は、再現された「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」の行われる道場である。後七日御修法とは、空海が宮中で始めたもので、天皇の身体安穏と国家の安泰・繁栄を祈る真言宗秘伝の最重要儀式である。参加できるのは高僧15名だけ。(後七日というのは1月8日から14日までのこと。元日から7日までは前七日節会という神職による儀式が行われた)今は、宮中ではなく東寺の灌頂院で行われている。
壁には巨大な両界曼荼羅図が掲げられ、国宝の法具がおかれた護摩壇がしつらえられている。実際に護摩の実演をやってくれれば有難味が増しただろうに、と思ったが博物館の中では無理なはなしか。
空海が最澄にあてた書状「風信帖」(国宝)をはじめとする諸文書、東寺ゆかりの仏画・仏具、そして何幅もの曼荼羅図などの展示を見て、いよいよ立体曼荼羅の部屋に入る。
立体曼荼羅は、いつもは東寺の講堂に安置されている。一歩足を踏み入れると、とにかくすごい迫力でただただ圧倒されるばかりであるが、展覧会ではやはり様子が違う。ばらばらに配置されているからか、あまり凄みを感じない。が、それぞれ一回りして彫刻作品としてつぶさに見ると、細部にわたるまで丁寧に彫られていて、9世紀の名も知れぬ仏師の技につくづく感心する。東寺の講堂では右端に控えている帝釈天騎象像がスター扱いされているのが面白い。イケメンなればこそ。
立体曼荼羅は、空海が構想して造らせたものだ。深遠複雑な密教はヴィジュアル化した方がわかりやすい、という彼の考えによる。たしかに、難しい密教の経典を読むより、曼荼羅図や立体曼荼羅を見ながら話を聞いた方がわかりやすいに違いない。
空海は、日本で生まれた天才の中の天才だ。彼ほどの天才は、没後、否、入定後1200年近くが経つが、一人も生まれていない。(入定とは、真言密教の究極の修行で、永遠の瞑想に入ること)
空海は、774年にいまの香川県の善通寺で生まれた。幼名を真魚(まお)という。家は讃岐の国造・佐伯氏、つまり地方長官。豪族である。栴檀は双葉より芳し、幼少の頃より天才ぶりを発揮したらしい。特に言語能力面で。
真魚には格好の家庭教師がいた。母の弟の阿刀大足(あとのおおたり)である。彼は漢学者で皇子の教育係であった。彼から論語、孝経、史伝などを教わり、15歳で奈良の大学寮に入る。官僚の養成機関である。しかし、処世学を学ぶことに飽き足らず、19歳ごろ突然出奔し、山岳修行を始める。24歳のとき『聾瞽指帰』を書く。儒教、道教、仏教を比べて、仏教がどのように優れているかを解き明かし、仏教への道を進むことを宣言する。それから、7年間、ひたすら山岳修行、仏道修行に励むが、詳しい記録は残っていない。室戸岬の洞窟での修行中、口に明星が飛び込んできた、という神秘体験はこの間のことである。修行中、密教に出会い、さらに深く学ばんと唐への留学を志す。
30歳のとき(804)、私費の留学僧として遣唐使船に乗り込む(一行に最澄もいた)。7月にいまの五島市を発ち、唐の都・長安に着いたのは12月。翌年5月、密教の第七祖である青龍寺の恵果を訪ねると、天才は天才を知るということか、直ちに奥義伝授が始まり、8月には免許皆伝となり、恵果の後を継いで第八祖となることが決まる。その4ヶ月後、恵果入滅(60)。
20年の留学予定を2年に短縮し、多くの密教の宝物とともに帰国。その後、高野山の開創、満濃池の改修、東寺の下賜、綜芸種智院(学校)の開設、などを経て、62歳で高野山にて入定。
弘法大師空海は、優れた詩文を多く残しているが、その一片。「生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥し」
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