自由時間 (96)  落ちた偶像・野口英世                山﨑赤秋

 猪苗代湖のすぐそばに、外観はまるでコンテナのような野口英世記念館がある。その隣に、コンテナの延長のような上屋があって、その下に茅葺屋根の農家がある。上屋は風雪を防ぐためだがその下は吹き抜けで、ちょっと面白い保護設備だ。
 この農家は、2019年に国の有形文化財に登録された(重要文化財ではない)。登録された理由は、「建築年代が明らかで(1823年)、会津地方の伝統形式の指標となる民家建築」だからである。野口英世の生家だからという理由ではない(もっとも、野口英世の生家だから解体補修まで行われて保存が行き届いていた、ということはあろうが)。
 一階の真ん中に板敷きの広間があって、囲炉裏が切ってある。例の囲炉裏である。ある日のこと、1歳5ケ月の野口英世(当時は清作)は、エジコ(嬰児籠)に入れられて、囲炉裏の傍に置かれていた。母シカは、汁鍋に入れる野菜を取りに家の外に出ていた。そのとき、家の中から火のつくような赤ん坊の泣き声が聞こえた。清作がどうやったのかエジコから抜け出して、囲炉裏に両手を突っ込んでいたのである。両の手がひどい火傷を負ったが、特に左手がひどかった。人差し指から小指までの第一関節が全てなくなり、4本がひと塊になってしまった。親指は手首のところまでずり下がって手首にくっついてしまった。この不具となった左手が彼の一生の軛となった。彼の身に添った強烈な劣等感・人並外れた自己顕示欲の源泉となった。
 鍬が持てない。「何の希望もない。水呑百姓の家に未練はない。俺は裸一貫で必ず偉くなる」野口は偉くなるために懸命に努力した。あらゆる機会や伝手を貪欲に利用した。医師や教師や宣教師に頼み込んで、英語・ドイツ語・フランス語を教えてもらった。
 普通なら合格するまで7年かかるといわれていた医術開業免状の国家試験に、1年間の猛勉強で合格した。しかし、左手は、形成手術を受け、物を握ることはできるようになったが、変形していて不自由であることに変わりはない。臨床医は無理だ、研究者になろう。
 当時、感染症をもたらす細菌の発見が相次ぎ、病原細菌学が脚光を浴びていた。コッホやパスツールなどの細菌の狩人たちが新しい病原菌を次々と発見していた。野口は思った、彼らのようになりたい。新しい病原菌を発見して歴史に名を残したい。
 彼は、北里柴三郎の伝染病研究所に入所することを目指し、伝手を見つけては懇願して推薦状を書いてもらった。幸い語学力を認められて入所を許される。しかし、学歴のない彼に与えられた仕事は図書係、論文の翻訳などをする係で、研究はさせてもらえなかった。
 入所して1年後(1899)、アメリカから医療視察団が来日し、そのメンバーの細菌学者フレクスナー教授が伝染病研究所に立ち寄った。通訳を任された野口は、好機到来とばかり、教授に、アメリカに行って細菌学の勉強をしたい、と必死で売り込んだ。教授は、それは素晴らしい、応援するよ、と言ってしまった。
 その言葉を頼りに、1900年、24歳の野口は単身渡米する。早速フレクスナー教授を訪問する。教授は驚いた。社交辞令の積りで言ったのにそれを真に受けて遠路はるばるやってきた人がいる。結局、教授がそのポケットマネーで野口を雇うことになる。
 その翌年、ロックフェラーが、最先端の研究を行う医学研究所を設立した。2年後、フレクスナーが所長となった。彼は野口をこの研究所に引き入れ、一等助手の肩書を与えた。これが野口にとっての大転機となった。世に出る機会を得たのだ。
 野口がまず挑んだのは梅毒の純粋培養である。梅毒の病原体は1905年に発見されていて、次に世界中の科学者が目指していたのは純粋培養(病原体一種類だけ培養すること)である。純粋培養ができれば治療薬やワクチンへの道が開ける。しかし、これは難題だった。野口は、持ち前の忍耐力で、単調な工程のおびただしい繰り返しの末、1911年、純粋培養に成功したと発表した。「細菌学の魔術師」と世界中で称賛される。しかし、誰も同じ方法で追試することができなかった。未だに成功していないところをみると極めて怪しいということになっている。次いで『梅毒の診断方法』『進行性麻痺(梅毒の末期患者の認知症)は梅毒由来であることの実証』などの論文を発表。これら梅毒三部作のうち生き延びて正しいとされているのは「進行性麻痺」の論文だけである。
 次に挑んだのは狂犬病。野口は検証不十分なまま、ごり押しして病原菌発見の発表をしてしまう。名声中毒になっていたのだ。現在では、狂犬病の病原体は細菌ではなくウイルスであることが確定しており、野口の研究は間違っていたことがわかっている。
 そして、黄熱病。彼は流行地であるエクアドルに赴いて研究にあたった。蚊が媒介することは分かっていたが、未だに病原菌は見つからずにワクチンは開発されていなかった。野口は、急ぐあまり、黄熱病と似た症状のワイル病患者の血液を調べて、病原体を発見したと発表した(野口はこの過ちに気づいていたはずである)。そしてワクチンまで作られた。1926年、その疑問点を指摘した論文がハーバード大のマックス・テイラーらによって発表された。
 1927年、野口は黄熱病の真の病原体を求めて、ガーナに赴くが、翌年黄熱病に罹患して死亡(51歳)。