韓の俳諧 (22)                           文学博士 本郷民男
─ 台湾勢の台頭 ─

 ソウルの『漢城新報』で明治29年6月に正風會の存在が確認できましたが、京都の『俳諧鴨東新誌』の138号(明治30年4月)に、台湾の台北連合が記載されています。この雑誌への海外からの投句は朝鮮という地名しかなかったのに、明治30年1月号に台湾からの投句が見えます。この頃から、「連合表」として、支部の人数を競争する欄が巻末にできました。
   4月分連合表
48人肥後 天草 42人後志 帆蕉社…6人台湾 台北
 6人以上の120支部が書かれ、台湾が登場しました。
菜の花や蝶も止まりて蔵の前台湾 杏花
雨に減る氷の下や初蛙台湾 市川
柿一つ梢に残る初時雨台湾 梅洞
朝夕に姿変へけり不二の山台湾 誠宇
蚊の群や昼は何処に潜むやら台湾 指水
山が家にのつと日の射す雉の聲  花杏
 最後の句は芭蕉の「梅が香にのつと日の出る山路かな」のもじりで、俳号も杏と花を入れ替えた無理やりな感じがします。ともかくも六人が入選して、この雑誌に記録された最初の海外俳句結社となりました。誠宇は一月から入選しこの月も句が多いので、台北連合のボスと見られます。138号には普通と違う俳句相撲の欄があります。
  附勝闘句 太無観太無宗匠判
草も木も目出度さうなり今朝の春
初日あまねく照らす君が代台湾 誠宇
年立ち返る風のうららか後志 茶六
左君が代の五文字据はり兼たる心地す。右今朝の春に年立ち返るは難し。一句の好きに拘はらず双方難あり、持とす。
 これは前句付で、五・七・五の課題に、七・七の付句を付ける競争です。連句だと、発句以外の三五句は、みな付句です。そこで、江戸時代のみならず明治になっても前句付を競って、連句の修業をしました。因みに、俳句は発句が前身なので、季語と切字が必須です。付句から独立したのが川柳で、切字を入れては駄目で、季語はあってもなくても自由です。
 評の左右が逆と思わないで下さい。力士と観客は、向かい合います。左右は、力士から見ての左右です。行事は、力士の後に立つ力士目線です。この勝負は、双方の句に難があるとして、引き分けです。
 後志(しりべし)は北海道の積丹(しゃこたん)半島や小樽など、江戸時代までは和人が殆どいなかった北の果てです。台湾は、日清戦争で明治28年に植民地になったばかりです。この対戦は、明治30年ならではです。
 台湾勢に先陣の一番槍を取られたので、抜け駆けを怒った?韓半島勢の本気スイッチが入りました。