韓の俳諧 (34)                           文学博士 本郷民男
─ 蕉禅世界 ① ─

 植民地時代の資料を探している内に、大正4年(1915)2月に韓半島北部で発行された俳句雑誌『蕉禅世界』二巻二号を見つけました。創刊が大正3年1月と思われます。咸鏡北道鏡城南門外 編集兼発行者田村小重郎、発行所 朝鮮蕉禅社となっています。
 品川区の臨済宗清徳寺に、「無外坊胡磨仁者蕉禅創業之地」という石碑があります。この人物は湖磨として『大正俳家伝』に出ています。明治8年に禅僧の子として生まれ、春秋庵幹雄に俳諧を学び、蕉禅新聞・蕉禅仏教道場など蕉禅社を設立しました。また、鎌倉の建長寺には湖磨が建てた「蕉禅俳諧五哲記念碑」があり、五哲の中の風見坊玉龍が『蕉禅世界』主宰の田村小重郎です。こうした碑によれば、明治から大正にかけて蕉禅俳諧は2万7千人の勢力があったということです。
 『大正俳家伝』には風見坊玉龍も載っています。明治17年に群馬県で生まれ、春秋庵幹雄に師事して明治39年に古池教会で立机しました。禅を菅原時保禅師に学んだともあります。春秋庵(三森)幹雄は芭蕉神社を建立し、古池教会も神道教会です。しかし、湖磨も玉龍も禅と接点があり、蕉禅社と朝鮮蕉禅社を設立しました。
 鏡城(キョンソン)は韓半島の東北端に近い所です。朝鮮朝初期には鏡城に北兵営が置かれ、女真と対峙していました。中国との国境に大河や高山がなく、辺境が不安定でした。四代王の世宗(セジョン)が北伐を行って領土を広げ、白頭山を中心に西は鴨緑江、東は豆満江を国境としました。鏡城は軍事拠点というより、交易地となりました。そんな所まで俳人が進出して俳句雑誌を出しました。
 『蕉禅世界』は38頁で、当時としては分量があります。最初に次のようにあります。
  ◎本社淸規
一、本社ハ俳諧研究ヲ旨トシ其ノ他修養ニ関スル事項及カリソメニモ社会ニ有益…
 淸規(しんぎ)とは、禅宗での集団生活を定めたもので、唐の百丈淸規が未だに使われています。本文の最初も変わっています。
  ◎禅宗 (承前) 風見坊述
 そもそも臨済の四料簡とは如何なるものやと云ふに、これは余が別に新案せるものにはあらず、即ち臨済録に列記されある也。今その本文を左に掲げて、その大要を得かん、師晩参衆に示して曰く(師晩参示衆云)ある時は人を奪つて境を奪はず(有時奪境不奪人)…
 臨済宗開祖の臨済の語録が『臨済録』です。『臨済録』の最初のほうに、臨済の四料簡があります。しかし、読み下し文と原文が合いません。
 ある時は人を奪つて境を奪はず(有時奪人不奪境)ある時は境を奪つて人を奪はず(有時奪境不奪人)とすべきです。こういった説明の後に、華厳の境地に至ることが書かれています。確かに臨済は公案を与えて答えさせ、華厳の境地に導こうとしました。しかし、文章の最初から間違っているので、華厳の境地なんてとても無理でしょう。禅宗の話は三頁しかなく、(未完)となっています。本稿も未完でございます。