韓の俳諧 (35)                           文学博士 本郷民男
─ 蕉禅世界 ② ─

 大正4年(1915)の俳句雑誌『蕉禅世界』2月号の続きです。3、4頁に「子規は新派に非ず我流也」という興味深い論説が載っています。
    東京 其角堂主人述
 俳諧に新舊なし、もしありとすれば、そは昨日の新は、今日の舊にして、今日の新は、明日の舊なるのみ。俳諧に流派あり、すなはち美濃派、伊勢風、或いは我が祖の江戸派等多々あるも、要は皆正風の岐流にしてその域を脱せず。世に蕪村調、太祇調と唱ふるものあるも、これ亦正風中のある一体に過ぎざるなり。故に新風と云ひ新調といふも、決して正風の縄墨を出でず。…子規が句風、子規が意見は、たしかに芭蕉翁の句調に親炙したるものにして、猶巨細に云へば、子規句集中、多くは虚栗時代に類せるもの、猿蓑時代に髣髴たるもののみにて、中にはそれ以外の句風あるを見るも、到底正風の縄規を脱するものにはあらざりき。…要は我派は芭蕉翁晩年の句風、即ち正風大成の俳諧を学び、子規は同翁の過渡時代たる壮年時の句風に則りたるに過ぎざる也。故に余は子規を以て決して他派の人とは見做さず。…病中にありて、彼の句風を流布せしめたる努力と、彼の熟練なる手腕は、大いに賞すべく充分なる価値を有する也。嗚呼子規は名人なり。偉人なり。再び彼の如き名人の躍出を望んで已まず。

 其角堂主人とは、其角堂(田辺)機一(1856~1933)です。勝峯晋風『明治俳諧史話』の「義仲寺で七日七夜の大法要」に出て来ます。其角堂永機が明治20年に機一へ其角堂の庵号と庵を譲り、機一は嗣号代として三百円を支払いました。永機はそんなあぶく銭は使ってしまおうと、芭蕉の墓前で忌日に合わせて大法要をやったということです。庵を継いだ機一は本所区向島の三囲神社境内の其角堂に住んでいました。其角堂機一が子規を高く評価しているのは意外でしょう。反対に生前の子規も其角堂機一の著作を見て、ライバルと思っていました。子規と機一は立場が逆でも、切磋琢磨した俳句の指導者です(復本一郎「其角堂機一著『発句作法指南』と正岡子規著『獺祭書屋俳話』」)。
 機一は芭蕉の俳風を初期の其角撰『虚栗』(1683年)、中期の去来・凡兆撰『猿蓑』(1691年)、末期の子珊 (しさん)撰『別座鋪』(べつざしき)と野坡等撰『炭俵』(1694年)に分けています。子規も蕉風ではあるが、初期と中期の蕉風に従っている。我々は末期というよりも完成期の蕉風に従っているから、子規よりは優れている。子規は偉人であり、若くして死んだのは惜しまれるというものです。
 芭蕉最晩年の炭俵調は「かるみ」を強調してわかりやすいものの、それを身上とした美濃派などは、「田舎蕉門」として、京や江戸の俳人から軽蔑されました。しかし、名人は人を謗らずの境地に至った機一の論説は、当時としては優れています。