衣の歳時記(74)   ─ 夏 羽 織 ─
我部敬子

時折、空や明るい日差しの中に夏の兆しを感じる五月。さ緑の美しい梢が風と響き合っているような心躍る季節である。東京の五月の平均気温は二十度前後で、四月よりも五~六度高くなり、更衣の季節を迎える。
夏羽織着て下町へ妻とかな臼田亜浪
夏向きに単衣にして仕立てる「夏羽織」。
お召や銘仙などもあったが、絽、紗、麻、レースなどの薄い涼し気な生地で作る場合が多い。副季語は「単羽織」「薄羽織」「絽羽織」「麻羽織」など。
薄羽織空濃きいろに着て病まず野澤節子
羽織の歴史は意外に古く、原型は室町時代に外衣として登場した胴服とする説が有力。
前で打ち合わせないので南蛮服の変形とする説もある。増田美子著『日本服飾史』東京堂出版)に詳しく出ているので見てみよう。
胴服とは、戦国時代の武将が好んだコート風もの。派手な意匠を凝らした贅沢なものが多く、一部は陣羽織になったが、広袖が付いていたものは袖口を小さくし、脇に襠を付けて羽織に近い形になった。
江戸時代初期には、華やかな色や文様が見られたが、次第に地味な色合いに落ち着き、羽織袴は、武家の男子の裃に次ぐ公服として定着した。今日まで続く羽織の形はこの時代に作られたのである。武士は帯刀し馬に乗るため、背縫いの裾にスリットのある打裂(ぶっさき)羽織を用いた。
羽織は裕福な町人層にも広がり、特に遊里に通う洒落着として大流行したが、庶民は窮屈羽織と呼ばれた半纏を着用した。江戸期の句で「羽織」の句はなかなか拾えなかったが、素丸の興味深い一句を挙げておく。
はせを忌の古則や茶食茶の羽織素 丸
夏羽織の方はいくつも詠まれている。
別ればや笠手に提げて夏羽織芭 蕉
身にからむ単羽織もうき世哉其 角
側に置きて着ぬことわりや夏羽織大 祇
交れば世にむつかしや薄羽織召 波
これらの句には男子の羽織の、主役ではない微妙な存在感が良く出ている。
明治以降黒の五つ紋付羽織袴が第一礼装になり、誰もが着ることができるようになった。
紋のない絽や紗の夏羽織は外出着として好まれていたようだ。
白扇や漆の如き夏羽織高浜虚子
身のほどを知る夏羽織着たりけり久保田万太郎
対する女子の羽織は歴史が浅い。江戸後期に深川の辰巳芸者が、元来男子のものである羽織を着て座敷に出たのを機に流行し、防寒着を兼ねて明治時代に一般に広まった。大正から昭和にかけて、丈の長い華やかな絵羽羽織が人気を博し、当時の地味目の着物を引き立てた。しかし第一礼装に用いることはなかった。
近年和装の衰退と共に羽織は見向きもされなくなっている。むろん夏羽織の女性にもめったにお目にかかれない。例句も少なく敢えて選んだ一句は、
美しき嘘透く夏の羽織かな野村親二
女性の表情まで浮かぶ魅惑的な句である。