古典に学ぶ (56) 『枕草子』のおもしろさを読む(10)
   ─「いやしげなるもの」章段の「ずれ」の感覚 ─      
                            実川恵子 

一四三段「いやしげなるもの」(見た目に下品なもの)は次のような章段である。

いやしげなるもの式部丞(しきぶのぜう)の笏(しやく)。黒き髪の筋わろき。布屏風のあたらしき。古り黒みたるは、さる言ふかひなきものにて、なかなか何とも見えず。あたらしうしたてて、桜の花おほく咲かせて、胡粉(ふん)、朱砂(すさ)など、色どりたる絵どもかきたる。遣戸厨子(やりどづし)。法師のふとりたる。まことの出雲筵の畳。

(見た目に下品な様子のもの 式部の丞の笏。黒い髪の筋が良くないの。布屏風の新しいの。この屏風の古くなって黒ずんでいるのは、それなりに、とりたてて言うかいもない物であって、かえって気にもならない。布屏風を新しく仕立て上げて、絵に桜の花をたくさん咲かせた図柄にして、胡粉や朱砂などを使っていろどった絵などを描いてあるのは見るからに品がない感じだ。引戸厨子。坊さんのふとっているの。本物の出雲筵の畳もみな下品な感じである。)
 気品があってうつくしい美を「なまめかし」とすると、気品がなく、魅力のないものが「いやしげなるもの」である。清少納言がどんなものを「いやしげなるもの」と感じたかは、この章段に挙げられた六つの事象から理解することはできる。
 極彩色の新しい布屏風は、豪華で美しいものだが、本来屏風というものは、儚くも美しい消耗品であるべきだという紙屏風の格調と心意気との相違が際立ってしまうのである。豪華な布屏風は「卑しいもの」ではなく、成り上がり者の上流気取りの愚かしさを露呈するように見えるがゆえに、「いやしげなるもの」であると排斥されている。
 また、太った法師も、本人の人柄はともかく、痩せている方が精進の程が窺われ、太っている僧には、俗的な生臭さを感じるので「いやしげ」なのである。
 このように「見かけ」の「~げ」を、『源氏物語』によく使われる「けうとし」(親しみにくい。馴染めない)、「けおそろし」(薄気味悪い)、「けなつかし」(なんとなく親しみやすく、心がひかれる)などの「け~」を冠した動詞、形容詞と比較してみるとよくわかる。どちらも婉曲な語法であるが、「何となく」、「どことなく」その気配があるという意味に用いられる接頭語の「け~」は、対象となるものを中心とし、それを含む周辺の領域全体をさしているのに対し、『枕草子』の「~げ」は、「~のようである」と、対象との距離、つまり、「ずれ」に焦点をあてて、その「ずれ」を拡大して見せる効果を持っているのである。
 本質や一義的な真実や真相はこの場では問題とはならない。何が書かれているかでもなく、どのように書かれているかでもない。言葉と「もの」が「ずれ」を見せ、意味が空白を見せる刹那の裂け目を捉えようとするのが「~げなるもの」の空間なのである。
 「~のようである」という保留のもとに、本質を捉えることの断念と絶望がこのような章段では、無言のうちに語られているのかもしれない。本質などというものを捉えることが、困難で不可能な営みであるとすれば、せめてその表層だけでもかすめとろうとする居直りにも似た働きが、これらの章段を性格づけているのである。