古典に学ぶ (57) 『枕草子』のおもしろさを読む(11)
   ─「清少納言のことばへの鋭敏な感覚①─      
                            実川恵子 

 清少納言は、ことばについて非常に鋭敏な感覚をもっていると思い知らされることがある。その最もよくあらわれた章段が、よく知られた「うつくしきもの」(一四五段)章段である。
 「うつくし」という語は、上代には、いとしいという意味でつかわれ、夫が妻に、親が子に愛情こめて抱く思いをいうことばであった。その意味が「うつくしむ」ということばに残り、この章段にも出てくる。この「うつくし」は、全体に、右のいとしいという下地の上に、もう少し客観的な「愛らしさ」を加味して使われているように思われる。そして更に、その客観的な愛らしさを「ちひさき」外形に結び付け、更に、小さいものの中でも、均整のとれたもの―かりのこ―、またはみごとな技巧の所産―瑠璃の壺―としての「うつくしきもの」、すなわち、今でいう美しいものへと導いている。次にあげてみる。

 うつくしきもの 瓜にかきたるちごの顔。雀の子の、ねず鳴きするにをどり来る。二つ三つばかりなるちごの、いそぎてはひ来る道に、いとちひさき塵のありけるを目ざとに見つけて、いとをかしげなるおよびにとらへて、大人などに見せたる、いとうつくし。頭(かしら)はあまそぎなるちごの、目に髪のおほへるをかきはやらで、うちかたぶきて物など見たるも、うつくし。
 おほきにはあらぬ殿上童(てんじやうわらは)の、さうぞきたてられてありくもうつくし。をかしげなるちごの、あからさまにいだきて遊ばしうつくしむほどに、かいつきて寝たる、いとらうたし。

 (愛らしいもの 瓜に赤ちゃんの目鼻をかいたもの。雀の子が、チョッ、チョッと舌を鳴らして呼ぶと、ちょんちょんはねてこちらへ来るの。二つか三つくらいの赤ちゃんが、何かに興味をもってかなりの速さで這って来る途中で、実に小さい塵があるのをめざとく見つけて、その塵に興味をひかれて、何ともかわいい指でそれをつまみあげて、大人などに見せる、そのしぐさも愛らしい。髪をおかっぱにしている女の子が、目に髪がかぶさってくるのをかきあげもせず、首をかしげて何かを見ているのも、愛らしい。
 まだ大きくなっていない殿上童が、美しく着飾らされてあるくのも愛らしい。かわいいきれいな赤ちゃんを、まあかわいい、ちょっと抱かせて、と抱き取ってあやしたりしている中に、私の胸にもたれこんで寝入ってしまったのは、実にいとしい。)
 ここでは、「うつくし」という語の昔の意味、それとは少しずれて来た今の意味、その方向をおしすすめて行った時にどこまで意味を広げ得るか、ということを清少納言はさぐろうと試みているようでもある。
 平均的な意味での「うつくしきもの」。ちごから少年までの愛らしさを全体の印象として全面に立てながら、昔の意味に近い場合は、むしろ、「らうたし」という語を使ってみたり、客観性が強い場合には「をかし」を使ってみたりしている。心情的な「いとしさ」の要素と、外観的な「美」の要素とが、清少納言の思いの中で、一方が濃く、他方が淡く、あるいはまた反対にと、様々に揺れ動くさまが目に見えて来るような文章だと思い知らされるのである。