古典に学ぶ (60) 『枕草子』のおもしろさを読む(14)
   ─「いみじう暑きころ」(208段)の匂い①─      
                            実川恵子 

 

 京都の夏は格別に暑いと言われる。風の出入りが少なく、あっても昼間は大阪平野から吹き込む暑い南西風となる。この地形による京都特有の蒸し風呂のような暑さは、平安の昔からほとんど変わることがないという。
 『枕草子』には、盛夏の暑さを描いた章段がいくつかある。その中で、ひときわ異彩を放つ「いみじう暑きころ」(208段)という章段がある。長くないので、次に全文をあげ、以前にご紹介した橋本治の桃尻語訳を載せてみたい。
 いみじう暑きころ、夕涼みといふほど、物のさまなどもおぼめかしきに、男車(おとこぐるま)の、さき追ふは、言ふべきに  もあらず、ただの人も、後(しり)の簾(すだれ)上げて、二人(ふたり)も、一人(ひとり)も、乗りて走らせ行(ゆ)くこそ、涼しげなれ。まして、琵琶(びは)かい調べ、笛の音などなど聞こえたるは、過ぎていぬるもくちをし。さやうなるに、のしりがいの、なほあやしうかぎ知らぬものなれど、をかしきこそ物ぐるほしけれ。いと暗う、闇(やみ)なるに、さきにともしたる松の煙の香の、車の内(うち)にかかへたるもをかし。
(メチャクチャ暑い頃よ、「夕涼み」っていう時分にね、ものの輪郭なんかも曖昧になってるんだけど、男車がね─先払いをさせてるのは言うまでもないけど、普通の人間のでもね─後ろの簾を上げて、二人ででも一人ででも乗って、走らせて行くっていうのがさ、ホント、涼しそうなのよね。ましてよ、琵琶を掻き鳴らして笛の音なんかが聞こえてるのは、通り過ぎちゃうのももったいないわ。そんな時にさ、牛の鞦(しりがい)の匂いが─やっぱ下品で嗅ぎたくないもんだけどさァ─「素敵……♡」になっちゃうっていうのがね、ホント、バカみたいよね。
 すっごく暗くて月のない時にね、前でともしてる松明(たいまつ)の煙の匂いが車の中にこもってるのも、素敵よ。)
  猛暑の夕暮れ時、視界が閉ざされたころ、聴覚と嗅覚が鈍くなったころの独特な世界を描く。定員の半分か4分の1の人数で、開放した男車のスピード感は、涼味満点。まして、それに、琵琶や笛などの楽の音色まで加わり、もっと聞いていたいとさえ思わされる。そのあとの「さやうなるに」が何を受けているかははっきりしないが、前文の男車との出会いを受けているとすれば、それまで匂いはしていても嗅ぎたくないものとして排除してきた匂いが、男車との出会いと一瞬の別れという出来事を媒介に、突然匂い立つとも読める。「鞦」とは、牛を車体につなぐための紐で、シリガイは、「シリ+ガイ」、「ガイ」は「繋(か)ぐ」の訛った言い方で、要するに、「シリガイ」という読みは、「尻をつなぐ」ということなのである。男車のすれ違いの余波として、清少納言の体内に呼び覚まされた興奮が、今まで気づくことのなかった「鞦の香」の「あやしう嗅ぎ知らぬものなれど」と弁解しつつも、なおその異様な生臭さに心を誘われ、動かされてくるものを語ろうとしているのである。また、続く「松明の香」も、その松脂の焼ける匂いと煙の香にも、執着する逸脱的な志向を顕わにしている。
 「いみじう暑きころ」の、熱気に誘われ、また車の振動に揺られて、清少納言の感受性のアンテナが振れ、あらぬ想像力がうごめき出すさまを捉えた異彩な章段であると考えられる。