古典に学ぶ (63) 『枕草子』のおもしろさを読む(17)
   ─ 「九月(ながつき)ばかり」(128段)の「をかし」の世界① ─      
                            実川恵子 

 台風が南岸はるかを東に通り過ぎたのか。本州にかかっていた前線が刺激されて、昨夜はよく雨が降った。今朝はいつもよりも一層まぶしい朝。こういう時、清少納言は実に楽しそうである。
 こんな光景を描いた「長月ばかり」(128段)という随想章段がある。「長月」とあるが、もちろん陰暦だから、秋の終わりであり、そろそろ朝晩の冷気も身にしみるころである。一読して、全体がキラキラ光っているような印象を受ける優れた叙景文である。それは次のようである。
 9月ばかり、夜一夜(よひとよ)降り明(あか)しつる雨の、今朝(けさ)は止みて、朝日いとけざやかにさし出でたるに、前栽(せんざい)の露はこぼるるばかり濡(ぬ)れかかりたるも、いとをかし。透垣(すいがい)の羅紋(らんもん)、軒の上などにかいたる蜘蛛の巣のこぼれ残りたるに、雨のかかりたるが、白き玉をつらぬきたるやうなるこそ、いみじうあはれに、をかしけれ。
 すこし日たけぬれば、萩などのいと重げなるに、露の落つるに、枝うち動きて、人も手触れぬにふと上様(かみざま)へあがりたるも、いみじうをかし、と言ひたることどもの、人の心には、つゆをかしからじと思ふこそ、またをかしけれ。
(9月のころ、一晩中降り続いた雨が今朝はやんで、朝日がパーツと明るく差し込んでいるところへ、庭の植え込みに置いた露が、こぼれるくらいにぐっしょり濡れかかっているのも素晴らしく素敵。透垣の羅文、軒の上などに張り残した蜘蛛の巣の破れ残っているのに、雨滴の落ち止まったのがまるで真珠をつないでいるように見えるのは、ほんとうにジーンときて素敵。
 ちょっと日が高くなると、萩のひどく重たそうだったのが、露が落ちるにつれて、枝が不意に動いて人が手も触れないのにピンと上の方に起き上がったのも、とても素敵、とこんなふうに書いてきた言葉も、他の人が見たらちっともおもしろくないだろうなと、思うのが、それもまたおもしろいことだよね)
 この章段を読んで、ふと思い出された方もあるかと思う。『古今集』の「浅緑糸よりかけて白露を玉にもぬける春の柳か」(僧正遍照)や「秋の野におく白露は玉なれやつらぬきかくる蜘蛛の糸すぢ」(文屋朝康)の歌である。清少納言はこれらの歌をこういう情景の中できっと思い出していたはずである。それらの二番煎じに終わることなんてプライドが許さない。しかし、この素晴らしい景を見逃すわけにはいかない。露を玉と見せるのは光の作用である。「朝日けざやかにさし出でたるに」と、清少納言は、この光を思い切りあざやかに設定したのだ。庭全体に大きいのや小さいもの、まるでダイヤモンドのような輝きが散らばった情景が想像できる。
 また、蜘蛛の糸は、空中に大きく張りめぐらされた巣の残骸として登場させている。草や木の枝にかかる小さな巣ではない。建物と建物の間に、どうやってあんな大きな巣を作るのかと思うような、見事な女郎蜘蛛の巣。見事に出来ていた模様が無残にも壊れてしまっているのを、「あはれ」と感嘆し、自然の造形の巧みさを「をかし」と捉える。「透垣の羅文、軒の上にかいたる蜘蛛の巣のこぼれ残りたる」という設定がなかったら、この文はつまらないし、また、この設定こそ、和歌という枠にはけっして収まりきれないものと思われる。