古典に学ぶ (66) 『枕草子』のおもしろさを読む(20)
─ 三つの散文詩の魅力  ─     
                            実川恵子 

 
 『枕草子』の短小な章段には、作者固有のすぐれた観察と感覚がうかがわれる。
 242段「ただ過ぎに過ぐるもの」もそのひとつである。
 ただ過ぎに過ぐるもの 帆かけたる舟。人の齢。春、夏、秋、冬。
(ただもうひたすら、過ぎに過ぎていくもの 帆をあげている船。人の年齢。春、夏、秋、冬。)
 あっという間に過ぎてしまうもの、という物尽くしだが、初めに「帆かけたる舟」という具体的な映像を置き、次に抽象的な「人のよはひ」、さらに四季の彩りを感じさせる「春、夏、秋、冬」と続く。そのために、あっという間に海上の視界から消えて見えなくなっていく帆舟のように、人生の時間、ひいては人間や人間世界のはかない移り変わりが見えてくる。単なることばの連想を超えて、自然と人間をともに凝視しようとする批評性の加わった連想が作用している。
 また、「遠くて近きもの」(161段)は前段「近うて遠きもの」と合わせて賞される段でもある。
 遠くて近きもの 極楽。舟の道。人の仲。
 (遠くて近いもの 極楽。舟の道中。男女の仲。)
「極楽」が遠くて近いのは、当時熱心に信じられた浄土教によれば、はるかな浄土も阿弥陀仏を念ずることによって近くなると思われたからであろう。「舟の道」は直行すれば意外に近いのか。「人の仲」は男女の仲。「極楽」「舟の道」「人の仲」、それぞれの真実をついた連想の文脈に驚く。人生の常識が意外に逆説に満ちていることを皮肉に提起し、遠いはずの男女の仲が何かのきっかけであっけないほど近くなることを掬いとっている。
 三つ目(216段)は、短いながらも随想章段の一つである。
 月のいと明かきに、川を渡れば、牛の歩むままに、水晶などの割れたるやうに、水の散りたるこそをかしけれ。
(月のたいそう明るい夜、川を渡ると、牛の歩くにつれて、まるで水晶などの割れたように水の散ったのは、すばらしい。)
 水晶のかけらのような、その美しさにおいて無類の一文である。
 月下に水のほとばしりが輝く一瞬をぴたりと静止させ、景に奥行を与えている。生起消滅してやまない事象現象を、静止した一幅の絵のように描いたのは、この作者の最も得意とするところである。こうした絵画的に捉える感覚によって、みごとな散文詩を作りあげている。
 無駄なことばは一語とてない。感覚の鋭さといい、文章の簡潔さといい、『枕草子』の特徴の最も凝縮されたすぐれた一段と思われる。
 これら三つの短小な章段には、清少納言の軽妙な筆と着想の妙に心ひかれる。また、対象の最も単純化されたものがこうした短章段に結晶する。それはほとんど作者の文章の生理の結果のようなもので、爽快な印象ももたらされる。