古典に学ぶ (71) 『枕草子』のおもしろさを読む(25)
─  清少納言の人間観察 人の心のあり方①─     
                            実川恵子 

 人の心のやさしさについて記した「よろづの事よりも情あるこそ」(251段)という章段がある。この前後に類似のテーマを扱った章段が並ぶ。それほど長くないので、3部に分けてあげたい。

 よろづの事よりも情(なさけ)あるこそ、男はさらなり、女もめでたくおぼゆれ。なげのことばなれど、せちに心にふかく入らねど、いとほしきことをば「いとほし」とも、あはれなるをば「げにいかに思ふらむ」など言ひけるを、伝へて聞きたるは、さし向ひて言ふよりもうれし。いかでこの人に、思ひ知りけりとも見えにしがな、と常にこそおぼゆれ。
 (ほかのどんなことよりも、情けのあるのが、男はもちろん、女もすばらしく思われる。たとえいい加減なあいさつで、ほんとうに深く心から出たものでなくとも、人の気の毒なことに対しては「気の毒に」とも、また、悲しんでいる場合には「ほんとうに、どんなにか悲しいでしょう」などと言ったのを、人から口伝えに聞いたのは、面と向かって言われたのよりも、うれしい。なんとかして、その人に、自分がその人の親切に感謝しているということを知ってもいたいものだと、いつも思われることだ。)

 かならず思ふべき人、とふべき人はさるべき事なれば、とり分かれしもせず。さもあるまじき人の、さしいらへをもうしろやすくしたるは、うれしきわざなり。いとやすき事なれど、さらにえあらぬ事ぞかし。
 (自分を愛してくれるにきまっている人、自分を訪ねてくれるはずの人は、やさしいのが当然のことなので、特別感激もしない。しかし、そんな関係でもない人が、頼もしげに合づちなどを打ってくれたのは、うれしいことだ。それは非常に簡単なことなのだけれど、実際にはほとんどあり得ないことである。)

 おほかた心よき人の、まことにかどなからぬは、男も女もありがたき事なめり。また、さる人もおほかるべし。
 (大体、気だてのよい人で、ほんとうに才能のなくはないという人は、男でも女でも、めったにいないもののようだ。しかしまた、そういう人も多いに違いない。)

 「なさけ」とは、辞典には、「他に働きかけるあわれみ、思いやりなど、人間としてのあたたかい心づかいをいう。もとは、他人に見えるような形を伴う心づかいをいったので、親子、兄弟、夫婦などの間には用いられなかった。のち人間らしい思いやりから転じて、みやび、情趣、風流などを理解する洗練された心をいうようにようになった」とある。この段の叙述は正にこの意味における「なさけ」の本質をそのままに描いている。「かならず思ふべき人」でない人が「せちに心深く入らねど」「なげのことば」に、「いとほし」とも「いかに思ふらむ」とも「うしろやすく」声をかけてくれる。ただそれだけのことで大して負担になるわけのものでないのだから、そんな程度のことなら無責任にいくらでも言えそうなものだのに、実はなかなかその一言が出てこないものである。