古典に学ぶ (72) 『枕草子』のおもしろさを読む(26)
─  清少納言の人間観察 人の心のあり方②─     
                            実川恵子 

 あまりかかわりのない人にまで、いたわりの一言をなげかけるような気の回し方は、よほど心の余裕がなければできることではない。たとえ、その場限りの言葉であっても、その言葉を口にしようと思いつくこと、それ自体が、ゆとりのない人間には「えあらぬこと(なかなかできないこと)」なのである。
 他人である自分の悲しみまでも、受け入れてくれる豊かな包容力が身に沁みるから、声をかけられた者はうれしいのである。「さし向ひて」言われてももちろんうれしいのだが、自分のいないところでそんなことを言っていたと、人伝てに聞く方が遥かにじんと、うれしさを覚えるのは、為にする不純な意図の介入を疑わせる余地がないからであろう。
 「男はさらなり、女も」(情けは、男性はもちろんのこと、女性であっても、やさしいなさけ心はうれしい)というのは、情けは本来女に対する男のもの、という清少納言の、男に依存したい女心の潜在的な感情がうかがわれておもしろい。
 また、「情け」と「かど(才能)」は両立しがたいのだというのである。「かど」の本領は精神の一点に集中して他を顧みない集中力にあるというのだろうか。ところが、またすぐに言を翻し、両立する人も「多かるべし」と言う。清少納言らしからぬ切れの悪さだが、反論を予想する思いなどが想像できそうだ。
 本段(二五一段)に続いて、「人のうへいふを腹立つ人こそ」(人のことについてうわさするのを聞いて腹を立てる人は)という次のような章段がある。
 

 人の上言ふを腹立つ人こそいとわりなけれ。いかでか言はではあらむ。わが身をばさしおきて、さばかりもどかしく言はまほしきものやはある。されど、けしからぬやうにもあり、また、おのづから聞きつけて、うらみもぞする、あいなし。
 また思ひはなつまじきあたりは、いとほしなど思ひ解けば、念じて言はぬをや。さだになくは、うち出で、笑ひもしつべし。

 (人のことについてうわさするのを聞いて腹を立てる人は、理解できない。他人の話をせずにいられようか……。確かによくないことかもしれないが。交流のある人については情が入って大目に見もするが、そうでない人については欠点を指摘して、笑ってやりたいものだ。)

 清少納言らしい、次々に思い浮かぶままに書き記したという感じの、文章である。自由で、率直で、しかも女性らしい発想がおもしろい。
 他人のうわさや悪口ほど魅力的な、楽しみはないだろう。しかし、言われる当人の身になってみると、やはり悔しいことのようだし、聞きつけた当人に恨まれたりするのは、あまり気持ちのよいものではない。
 また、つき放して悪口を言えない間柄の人には、「可哀想」と許してしまう。そんな思いを通して見えてくるのは、清少納言のざっくばらんで心優しい人柄、そして単純素直な人間像である。
 そして、最後の「さだになくは、うち出で、笑ひもしつべし」という一節には、頭の切れるこの人らしい人間観察をのぞかせているのも興味深い点である。