古典に学ぶ (75)令和を迎えて読み直す『万葉集』の魅力
─  「梅花の宴」の意味するもの③     
                            実川恵子 

 続く六番手(820)は、筑後国守葛井連大夫(ふぢゐのだいぶ)の次の歌である。

梅の花今盛りなり思ふどちかざしにしてな今盛りなり
(梅の花は今満開だ。親しいお歴々よ髪に挿そうよ。今満開だ)

 旅人への孤独の思いやりの歌が二首続き、やや沈みがちな雰囲気を切り替えるため、第二句と第五句の「今盛りなり」を繰り返す古代の歌謡の形式に従って、梅の花の盛りを目にし、これをかざしにして大いに飲もうと詠う。
 七首目(821)は旅人とも交友のあった、上座最後の僧侶沙弥満誓(さみまんせい)の、

青柳(あおやなぎ)梅との花を折りかざし飲みての後(のち)は散りぬともよし
(青柳と梅の花とを折って、髪に挿し、楽しく飲んだその後は散ってもよいわ) 

 梅園の中にあって、仰せのとおりに歌によって喜びの限りを尽くそうというのである。以上の歌に見られるように、高官たちの七首のつながりは、実に緊密で、妙というべきである。そして、なんとも高雅で打ち解けた楽しい梅花の集いであったことが読み取れる。
 そして、これらの七首の歌に続き、この梅花の宴の主人(あるじ)、旅人に番が回ってきた。
 その歌(822)は、

我(わ)が園に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来(く)るかも
(我が園に梅の花が散る「ひさかたの」天から雪が流れて来るのだろうか)

 旅人は、前歌の笠沙弥の「散りぬともよし」に着眼して、今までの人々とは読みぶりが全く異なる世にも風流な散る梅の花の歌を披露したのである。それは、漢詩の発想を取り入れた趣向が際立って新しく、あくまで前歌の「散りぬともよし」という仮定表現をとらえ、白雪の舞い落ちるのに紛うばかりに、梅の花の散る世界を、言葉の上に造型したところが注目される。
 こうして、この旅人の幻想ともいえるような歌を契機に、以下の歌は、梅の花の「咲く」ことと「散る」ことに関心をよせ、その感覚のもとに歌を詠みついでゆくのである。
 それは、前の高官に続く大宰府六位以下の役人たちである。最初のような正確な身分順になっていないところもある。
 次いで、伴氏百代(ばんしのももよ)の歌(823)が、主人旅人の歌を受けて歌う。

梅の花散らくはいづくしかすがにこの城(き)の山に雪は降りつつ

(梅の花が散るとはどこなのでしょう。そうは申しますものの、この城の山にはまだ雪が降っています)

 この作者、伴氏とは、大伴氏の省略で旅人とは親しい間柄であったらしい。百代は、一見野暮で、眼前には梅の花などは散っていない状況に対して、主人旅人の幻想の美しい花を散らし、雪と見紛う白い梅の花を我が園に舞わせた歌を、それを事実で理解する風をよそおいながら、旅人の風雅を引き立てようとしたのである。そうすれば、後に続く人は気軽に詠めるに違いないという計らいもあったのであろう。百代という人物は、そういう配慮ができ、人間としても鍛錬がいるだろうし、何よりも風流人であったともいえるだろう。
 この百代の計らいがあればこそ、この歌に続く人は気軽に詠める。主人の高雅に相対さないですますことが出来るのである。