春耕俳句会は、有季定型の俳句と和楽の心で自然と人間の中に新しい美を探求します。第五感・第六感を働かせた俳句作りを心がけます。
連載記事 - 月刊俳句雑誌「春耕」掲載

はいかい漫遊漫歩(124)(125)2019年12月号

 時は元禄14年(1701)旧暦3月14日巳の下刻(午前11時半過ぎ)、前を行く高家筆頭、吉良上野介の背後から浅野内匠頭が「この間の遺恨覚えたか」と叫んで礼式用の小刀で切りつけ、振り返った上野介の眉の上を傷つけた。さらに切りつけようとする内匠頭を居合わせた大奥御台所付き留守居番、梶川頼照(通称与惣兵衛)が羽交い絞めにし、側にいた御坊主(茶坊主)、関久和に「坊主、早く刀を取り上げろ」と怒鳴った。剃髪していても武士職分の久和、すばやく小刀を奪い、内匠頭は取り押さえられた。 内匠頭を取り押さえた梶川与惣兵衛は、この手柄で五百石加増され、千二百石取りの旗本に昇進。内匠頭の手から刀を取り上げた茶坊主、関久和は、白銀30枚を下されたが、御褒美辞退を申し上げた。この出処進退が城中城外に伝わるにつれ、2人は毀誉褒貶の渦中の人となる。  和漢、仏典合わせて123書目に眼を通し、不動の注釈書『奥細道菅菰抄』を書き上げた蓑笠庵(さりゅうあん)梨一。梨一は、前話で松の廊下刃傷沙汰の事件現場に居合わせた御坊主、関久和の次男。梨一は、高橋氏、名は髙(干)啓。正徳4年(1714)、武蔵児玉に生れた。幼時より治農の道を悟り、諸郡令に従って30余年間諸村を歴治した。元文の末頃柳居(註:蕉風の復古に努めた佐久間柳居。幕臣の俳人)に就いて俳諧を学び、明和初年越前丸岡に退き、この地に18年とどまり天明3年〈1783)、70歳で没した。その人となりは、伊東祐忠の『蓑笠庵梨一伝』に「清貧寡欲、家事を修めず、会計総て人に任ね、性来酒を好み、行遊散歩を事とす」とある。

韓の俳諧(10)2019年12月号

海外詠の先駆者 海外へ旅行あるいは居住して詠んだ俳句(海外詠)の先駆者として普通に認められているのは、万延元年の遣米使節団の加藤素毛だが、より早く釜山に滞在した対馬藩士松村弥平太の句が残されている。加藤素毛は、支考が芭蕉を祖として立てた美濃派の獅子門の俳諧をたしなみ、俳誌 獅子吼は今に繋がっている。

「俳句文法」入門 (10) 2019年12月号

 語尾がナ行のナニヌネの四音に活用する動詞をナ行変格活用(ナ変)という。死ぬ・往(去)ぬ、の二語のみ。連体形と已然形に注意する。  死〈な・に・ぬ・ぬる・ぬれ・ね〉と活用する。ナ行に活用する四段活用の動詞は他になし。

自由時間 (77) 2019年11月号

初代吉右衛門は、趣味に俳句、弓道、書、小唄などをたしなんだ。いずれも玄人はだしである。「秀山」とは初代吉右衛門の俳名である。小宮豊隆の「中村吉右衛門論」その冒頭で「文壇で会つて見たいと思ふ人は1人も居らぬ。役者の中では会つて見たいと思ふ人がたつた1人ある。会つて見たら色々の事情から多くの場合失望に終はるかも知れぬ。夫にも拘らず藝の力を通して人を牽き付けて止まぬ者は此の唯一人である。此唯一人とは云ふ迄もない、中村吉右衛門である」

曾良を尋ねて(123) 2019年11月号

曾良が芭蕉の臨終にも、義仲寺の葬儀にもまた江戸での追悼歌仙にも追悼吟は手向けたが出ていない。この件においては謎であるが、一つ考えられるのは、曾良の親代わりで生涯後ろ盾として支えてきた吉川惟足が翌月亡くなっていることが原因ではないかとも思われる。

鑑賞 「現代の俳句」(138)2019年11月号

叱られて犬の散歩や布袋草 大矢武臣

はいかい漫遊漫歩(122)(123)2019年11月号

自由律俳句結社「海市」の句友で、住宅顕信(すみたく・けんしん)の没後、亡友の悲願の句集『未完成』を彌生書房の商業出版に漕ぎつけた池畑秀一の回想を『住宅顕信全俳句全実像―夜が淋しくて誰かが笑いはじめた』のあとがきから引く。顕信から電話をもらい、池畑が岡山市民病院を訪ね、入院中の顕信に初めて会ったのは、昭和61年(1986)8月。永の別れとなるわずか半年前のことだった。前話にも触れたが、当時、岡山大学の准教授(数学)だった池畑は、『層雲』に入門したばかりで、顕信は年下だが句歴は2年先輩だった。放哉、山頭火の存在を知る程度だった年上の池畑に自由律俳句について滔々と語る病人、顕信。  〈 彼の話は新鮮で魅力的だった。〉と池畑は書く。〈 それからほぼ二週に一度の割合で病室を訪れ、二人で俳句の世界に浸った。彼の俳句に対する態度はすさまじいもので、私はその気魄にいつも圧倒された。尾崎放哉に心酔しており、放哉全集は一冊はボロボロにしてしまい二冊目を使っていた。一句一句を心をこめて大事に作っていた。全国の俳友からの便りをテーブルに並べて説明してくれた時の顕信の嬉しそうな表情を忘れることが出来ない。…僅か半年の交際だったが、彼は私の心に多くのものを残していった。〉 句友池畑の熱意と彌生書房の英断で、顕信悲願の句集『未完成』は、亡くなって僅か1年後の昭和63年(1988)に全281句を収めて刊行。この句集によって、俳人顕信の句が知られるようになる。平成14年(2002)にはフランスの著名出版社ガリマール書店から日本俳句のアンソロジー『Haiku:Anthologie du poeme court Japonais』が出版された。内訳は松尾芭蕉から現代俳句まで507句を搭載。自由律俳句では種田山頭19句、尾崎放哉13句、そして謙信が9句選ばれている。  平成5年(1993)2月、岡山市内を流れる旭川の畔で顕信句碑の除幕式が行われた。次の句が刻まれている。  水滴のひとつひとつが笑っている顔だ 

古典に学ぶ (76)万葉集の魅力 (4)2019年11月号

古典に学ぶ (76)令和を迎えて読み直す『万葉集』の魅力 ─  「梅花の宴」の意味するもの④                                  実川恵子   「梅花の宴」の主催者たる大伴旅人の幻想的な歌で …

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