曾良を尋ねて (114) 乾佐知子
─晩年の芭蕉の動向 Ⅰ─
芭蕉監修のもと去来と凡兆の編纂によって『猿蓑』が完成し、京都井筒屋から出版されたのは元禄4年7月2日のことであった。
その頃曾良は奈良から伊賀上野、伊勢志摩を巡り7月17日に長島入りをしている。そしてこの日から滞在すること10日あまり、曾良の旅日記はこの25日をもって最後となっている。
その後も芭蕉は曾良が期待していた江戸へ帰ることはなく、なおも近江や京にとどまり、ようやく江戸に戻ったのは約3ヶ月後の10月29日であった。所が芭蕉庵は今だ再建されておらず、暫くは日本橋橘町の彦右衛門方の借家に住むこととなった。
杉風や曾良の尽力により第三次芭蕉庵が出来たのは元禄5年4月の初めで、翌5月に転居した。するとそこに彦根藩の許六が入門し、出羽からは呂丸が来たりと久々に芭蕉庵は昔の活気を取り戻したようだった。
然し翌6年残念なことに身内に不幸が出た。甥の桃印が3月に亡くなったのである。桃印は芭蕉の猶子(養子)といわれており、死因は肺結核だったという。まだ33歳の若さで世を去った。芭蕉の落胆ぶりは激しく、盆から1ヶ月間はほとんど人に会うことはなかった。
朝顔や昼は鎖おろす門の垣
秋に入りいくらか気持ちの落ち着いた頃、彦根に戻った許六に一句報告している。
老いの名のありとも知らで四十雀
当年はめっきりくたびれを感じているというのだ。芭蕉は数え年50歳を迎えていた。
やがて年が明け芭蕉が元禄7年4月に素龍に頼んでおいた『おくの細道』の清書が出来上がった。
1ヶ月後の5月8日芭蕉はそれを懐にして次郎兵衛と一緒に伊賀上野へ向かった。この次郎兵衛は寿貞の息子ではないか、といわれているが、この頃寿貞はすでに病床にあり、その世話を信頼していた猪兵衛という者に頼んでいる。
帰省するに当り、庵やその住人については杉風と曾良に全て託されていた。そしてこの旅は素龍が墨書してくれた『おくの細道』の原稿を、故郷の兄に託す為の帰省でもあった。
それまで約2年の間芭蕉の身辺の世話をし、親密に労をとってきた曾良は、この2人を小田原まで同伴して箱根で別れている。道中、曾良がまだ旅の知識もない少年にいろいろ教えていた様子が芭蕉の手紙でわかる。
箱根まで御大儀かたじけなく,次郎兵衛も少し学問いたし候よし申し候へども、漸く草臥れの体見え申し候。
当時の東海道は「信じられないほどの数の人間が毎日歩いている」といわれる程の渋滞状態で2人の旅は大名行列に巻き込まれたり、大井川の川止めに合い3日間も渡れなかったり、かなり苛酷なものであったらしい。
ふつと出て関より帰る五月雨※曾良
この別れが芭蕉との最後の別れになろうとは曾良には知る由もなかった。
(※『来て』の記述もある)
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