曾良を尋ねて (136)           乾佐知子
─岩波庄右衛門謎の終焉について─

芭蕉と共にみちのくへの150余日に及ぶ過酷な旅を経験し、その後関西方面もほぼ踏破して、人生の大半を旅に費やした頑強な曾良が、いかに高齢とはいえ、また慣れない船旅と堅苦しい官吏という役目に疲労が重なった等の要因はあったとしても、3日目に死亡ということはいかにもあっけない終焉であったという感はぬぐえない。
 しかも仮にも用人死亡という大事件にも拘わらず巡見使の一行にさほどの混乱もなく、4日後に粛々と出発していることも解せない。
 静閑を好む人物とはいえ、心底には厳しい忠誠心と強靱な根性を持った曾良のことであるから、この間に何か特別な深い事情があったのではなかろうか。この素朴な疑問を解くべく、問題の3日間の謎について少々大胆ではあるが私なりに推測をこころみた。
 実は、曾良には榛名山にて数年以上生存していたのではないか、という「本土生存説」があることは前稿でも書いた。この説は、現在から僅か82年前の昭和13年の「文学」4月号に渡辺徹氏により発表された論文であるが、大変インパクトのある内容に俳壇は衝撃を受けた。次稿で詳しく紹介したい。
 この論文をふまえて私の推測はより核心的なものへと発展したのである。
   かねてから対馬藩に対する幕府の意向から、正字には本来の諜報員としての密命が下っていたのではないか、ということである。江戸を出立する時に、六十六部の衣装を持って行くと言って上司に止められて諦めたはずだが、やはり荷物の底に入れてあった。

 対馬藩の出方によっては、途中から正字の秘かな単独行動もあり得るとされており、当然この計画は前もって幕府と巡見使の旗本3名、そして正字の間で綿密な打合せがあったものと思われる。
 この計画は相島から幕府の船が入った22日実行に移された。一行の面々には、〝用人岩波殿急病〟と偽って正字は密かに中藤家に入り、身の廻りの物を預けて六部姿となった。そして公儀が前もって用意した偽名の通行手形を受け取り、幕府が向けた船に乗り込んで、一人対馬へ渡ったのである。
 しかしいかに幕府の命とはいえ、あくまでもこの行動は内密である為、表向きには明らかにすることは出来ない。むしろ諜報員として長年幕府の影の存在として力をつくして来た正字としては、最後の御奉公と覚悟していたのではあるまいか。
 正字の仕事に支障があってはならないと、3日間待った巡見使の一行は、26日整然と壱岐島を発ち対馬藩へと向かった。一行からは途中「病気療養中の用人岩波庄右衛門正字は、22日急病死」した旨幕府には報告が出された。
 その頃当の正字本人は、久し振りの六部姿に本来の自分の姿を取り戻したように、任務を無事に遂行した後、ひたすら江戸へ向かって歩を進めていた。その足取りは軽く、死亡届が出されたことなど一向に意に介する様子はなかった。