曾良を尋ねて (99)        乾佐知子

─「奥の細道」に於ける佐渡とはⅠ ─

   6月29日一燈公の墓参を済ませた曾良が向かった先は、村上藩の誇る三面川河口の港町瀬波であった。この港からは主として年貢米や鉱山から採掘された鉛、また酒、お茶等の生産品が運び出されていた。活気に溢れる港の船や人夫の様子を記録する。郷里にあっても本来の仕事は着実に遂行する曾良であった。この時期は丁度瀬波から南の砂丘に広がる赤松林の五千本の苗を植えつけている最中であった。貞享元年に村上の大年寄が藩に願い出てこの作業が実現したという。勿論この様子も一部始終が報告されると思われる。

 7月朔日に喜兵衛と太左衛門に案内され、菩提寺の太叟院に向かう。ここには藩主榊原家初代の政倫の墓があった。この一つの行動から推察しても曾良の立場が別格の扱いであったことがわかる。

 7月2日に新潟に着く。しかし生憎1日から7日まではここ新潟の湊祭で旅籠はどこも混み合っており宿の手配に苦労する。低耳の紹介状も功を奏さず、雨の降り続く中を九日間不機嫌なまま遂に「病おこりて事をしるさず」となった。
 
   しかしここで芭蕉が詠んだ句が「細道」一番の名句と後世に讃えられようとは俳壇にあっても意外とされ、まざまな憶測を呼んでいる

荒海や佐渡に横たふ天の川

 この句について国文学者の麻生磯次氏は、「北の海は波も荒く、海の色も濃く、すさまじい感じである。その荒海の中に佐渡が黒々とひそまり、島に向かって銀河が滝のように降りそそいでいるという意味だが、ただ豪壮雄大な句であるだけではなく、昔から罪人の流された佐渡の人々の孤独を思いやり、芭蕉自身の旅愁の思いをのべているのである」と解説されている。

 〝佐渡〟という島について、現在は往来も安易となり、観光の島として大いに賑わっている最近の明るいイメージの佐渡と、絶海の孤島とされて、古くから悲哀のイメージを持つ江戸時代の人々の感覚とは、かなりかけ離れたものがあったと思われる。

 佐渡の島は古くは室町時代の能楽者である世阿弥を始め、承久の乱の順徳天皇、更に鎌倉中期には仏教の祖ともいえる日蓮までもが流された流刑の地であった。望郷の思いを募らせつつも現地での繁栄に力をつくした彼らの心情はいかばかりであったか。

 従って現代の佐渡には彼らの裔が多くおり、京の伝統を受け継ぐ雅な風習が数多く残っている。

 芭蕉が句の最初に〝荒海や〟と激しい言葉をのせたのも、不幸にも遠流の島へ去らざるを得なかった人々の張りさけんばかりの無念の思いをはるか彼方に望まれる島影にみたからであろう。おそらく芭蕉はこの崇敬なる島影に掌を合わせ、自らの旅の成功をも祈願していたのではあるまいか。そして彼の必死な思いと俳句にかける真摯な熱意がこの傑作を生んだと思いたい。