曾良を尋ねて(93)      乾佐知子

ー出羽越え・尿前の関 Ⅰー

 仙台藩に入って13日目の5月15日は、二人が江戸を発ってから46日目であった。

 南部道遙かに見やりて、岩手の里に泊る。小黒崎(おぐろざき)・美豆(みづ)の小島を過 ぎて、鳴子の湯より尿前(しとまえ)の関にかかりて、出羽の国に越えんとす。この路(みち)旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸(やうやう)として関を越す。大山をのぼって日既(すで)に暮れければ、封人の家を見かけて舎(やどり)を求む。3日風雨あれ て、よしなき山中に逗留す。

       蚤虱馬の尿する枕もと 

  この日二人は岩出山より出発する。所が今迄順調であった旅が、この日は思いもかけず関所止めにあってしまったのだ。二人は前日の予定では、尾花沢へ行くために通常コースの軽井沢越え最上街道の手形(入判)を持っていた筈である。
 ところがこの街道は別名〝銀山越え〟とも称されており「野辺沢銀山」があった。現在も銀山温泉として残っている。この頃は当時の賑わいは過ぎ去っていたものの、出羽三山へ行く旅人やら北前船からの物産品が各地に運ばれるやら街道として一番の人通りであった。
 しかし、銀が大量に出るこの地域は不審者も多く銀が秘密に持ち出されることを警戒した藩があちこちにいくつも番所を設けていた。この事を知った二人は慌てて道を変えた為に尿前番所に出てしまい厳しい詮議を受ける羽目になってしまったのである。尿前は陸奥国と出羽国の境にあり、軍事上の要衝として古くから関が置かれていた。
 曾良の旅日記によれば「右の道遠く、難所有之由故、道をかへて」と書かれており、急いで変更したことがわかる。

 「この路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて」とあるが、目的地の尾花沢へは遠回りになることと、出発地の仙台から4・5日で来られる行程を、途中で道を変え13日もかかっていること、更に出手形の用意がなかったことで不審者として怪しまたのである。当時の幕府は、関所の宛名違いと手形の発給者の名前、印判の違いは絶対通してくれなかった。(金森敦子著『曾良旅日記を読む』)
 旅に慣れた二人にしては珍しいことだが、東国の街道と違ってみちのくの藩では手形の入判と出判の取締りが厳しく、藩ごとにルールも違っていた。
 曾良はこの先の最上川べりでも「六月朔・・大石田ヨリ出手形ヲ取リ、ナキ沢ニ納メ通ル。新庄ヨリ出ル時ハ新庄ニテ取リテ、舟形ニテ納メ通ル。両所共ニ入ルニハ構ハズ」と記録している。
 関所と番所の通過の苦労は、曾良が同行者としていかに心を砕いていたか、その経過と状況がよくわかる。
 「漸(やうやう)として関をこす」とあるが、その方法として〝袖の下を使った〟のではないか、という説が一般的だが、私は曾良が最後の切り札として公儀のお墨付きを見せたのではないかと思うのだが如何だろう。