春耕俳句会は、有季定型の俳句と和楽の心で自然と人間の中に新しい美を探求します。第五感・第六感を働かせた俳句作りを心がけます。
連載記事 - 月刊俳句雑誌「春耕」掲載

はいかい漫遊漫歩

はいかい漫遊漫歩(82)(83)2018年3月号

東大寺二月堂(奈良)の修二会(3月1日―14日)にちなんで書く。二月堂で行われる修二会の「お水取り」は、若狭(福井)から二月堂脇の良弁杉の根方に遠敷(おにゅう)明神を勧請、、大松明を持った十一人の練行衆(僧侶)が、明神の閼伽井屋(あかいや)の若狭井から香水を汲み、堂内に運ぶ儀式。 詩人、三好達治には、俳人としての隠れた顔があった。俳句を始めたのは詩作より早く、中学時代に『ホトトギス』を購読、独学で作句に没頭、二十歳ころ句作ノートは千句を超えた。俳人を名乗ることはなかったが、伝統的な歌の調べや抒情性が詩に活かされている。

はいかい漫遊漫歩(80)(81)2018年2月号

現代俳句協会の第37回現代俳句評論賞(二〇一七年)を受賞した松王かをり(「銀化」同人)の「『未来へのまなざし』―『ぬべし』を視座としての『鶏頭』再考―」は、文語文法を手掛かりに子規俳句〈鶏頭の十四五本もありぬべし〉の深層に迫る画期的な俳論である。

はいかい漫遊漫歩(78)(79)2018年1月号

「人間宣言」をしたのは昭和天皇だが、「肉食宣言」は、祖父の明治天皇。宣言の一年後の明治六年にレストラン「精養軒」が開業、四年後には不忍池畔に上野精養軒も店を開き、現在は本店として営業を続けている。 蕎麦の実の外皮を取り除いた芯だけでつくったのが「ざる」で、外皮のまま挽いた粉を使ったのが「もり」である。外皮を取り去る手間と、蕎麦の実の分量が少なくなるだけ、「ざる」のほうが値段が高くなる。街のごく普通の蕎麦店では、刻み海苔がトッピングされているのが「ざる」、乗っていないのが「もり」で、客もそれを承知で注文していると言っていい。

はいかい漫遊漫歩(76)(77)2017年12月号

「お客様は神様です」の国民的演歌歌手、三波春夫。本名の北詰文司にちなんだ北桃子(ほくとうし)の俳号で俳句を詠んだ。 女優、夏目雅子の決めぜりふは、映画『鬼龍院花子の生涯』での啖呵「なめたらいかんぜよ」。夏目は写真家の浅井慎平主宰「東京俳句倶楽部」に参加、俳号は海童。〈結婚は夢の続きやひな祭り〉などの句がある。 映画『男はつらいよ』シリーズの “フーテンの寅 ”役を27年間演じ続けた国民栄誉賞俳優、渥美清の俳号は風天。 円谷プロの映画『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の監督として知られ、後年オペラ演出にも進出、東京芸術大学演奏芸術センター教授も務めた実相寺昭雄。ATG長編映画『無常』では、ロカルノ国際映画祭グランプリを受賞。TBSのテレビ演出部を振り出しに映画、オペラ演出と活躍の場を広げた才人は、小学生時代からの鉄ちゃん、それも路面電車オタクだった。 種村直樹は、故宮脇俊三とともに “乗り鉄 ”の世界を一つの文化、鉄道文芸に育て上げた功労者だ。1980年から30年、延べ495日かけて鉄道による列島外周踏破の日、東京・日本橋に200人のファンが詰めかけ、達成を祝福した。

はいかい漫遊漫歩(74)(75)2017年11月号

不義密通はご法度の江戸時代、武士出身の俳諧師、有井湖白と駈落ちした築後国唐島(現久留米市)の庄屋の内儀、なみ、時に二十九歳。有井湖白は駈落ち後、湖白庵浮風と改号。なみも浮風の指導よろしきを得て腕を上げ、浪女(波女)と号する俳人に。浪女から雎鳩に改号。浮風が61歳で死去、その百ヶ日の忌に48歳の雎鳩は剃髪、諸九尼を名乗り、女宗匠を目指す。58歳のとき、諸九尼は芭蕉の「奥の細道」を辿り、奥羽行脚の記録を纏め上げる。夫、浮風の生まれ故郷、直方(現福岡県直方市)に居を移した湖白庵で養女の慈法に看取られて逝去。享年六十八歳。

はいかい漫遊漫歩(72)(73)2017年10月号

三笠宮崇仁親王が、平成28年10月、百歳の天寿を全うされた。終戦時は陸軍少佐の軍人だったが、戦後は古代オリエント史の研究者として東京芸大、東京女子大などの教壇に立たれた。そして、百合子妃(95歳)と『初雪』『夕虹』の二冊の夫婦合同句集を持つ“俳人宮さま”だった。 士農工商の封建社会、男社会だったはずの江戸時代、芭蕉の登場で全国に蕉風俳句の流れが広がった17世紀末から19世紀前半にかけて、驚くほど多数の女性俳諧師が活躍し、百冊に及ぶ撰集が板行されていた。夫の谷口楼川とともに江戸座の宗匠を務めた田女は「俳諧の清少納言」とも言える才女俳諧師だった。

はいかい漫遊漫歩(70)(71)2017年9月号

 聖路加国際病院名誉院長で文化勲章受章者の日野原重明さんが「生涯現役」を貫き、百五歳の天寿を全うして一月経つ。六年前から“ランドセル俳人”で知られる小林凜君(現在十七歳の高校生)と俳句を交えた爽やかな交流を続けていた

はいかい漫遊漫歩(68)(69)2017年8月号

八月や六日九日十五日、八月の…、八月は…の三句は、毎年八月になると多くの人々に同じ句が詠まれ続けている。 日中戦争が始まった昭和十年代、新興無季派の戦火想望俳句が登場。若き三橋敏雄は戦火想望俳句の期待の星として注目された。

はいかい漫遊漫歩(66)(67)2017年7月号

二枚看板の「糞土師」を誇り高く名乗る男のもう一枚の肩書はキノコ写真家、伊沢正名。世界でもっとも本気にウンコとつきあう男のライフヒストリーを通して、ポスト・エコロジー時代への強烈な問題提起となる記念碑的奇書。目から鱗、尻から雲古。感動の記録書。

はいかい漫遊漫歩(64)(65)2017年6月号

芥川龍之介(俳号:我鬼)は、「芭蕉雑記」で〈 芭蕉は一巻の書も著はしたことはない。所謂芭蕉の七部集なるものも悉く門人の著はしたものである。〉と書く。指摘のとおり芭蕉には、自ら板行した句集、自ら執筆した俳論、俳書がない。「日本の古典の代表的な紀行文」と言われる「おくのほそ道(奥の細道)」ですら、芭蕉自身は公開する気がなかったという。

はいかい漫遊漫歩(62)(63)2017年5月号

愛妻へ貧しさを詫びる反語句〈 無禮なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ 〉をタイトルにした初句集『無禮なる妻よ』が出たのは、昭和二十九年、夢道五十一歳のときだった。

はいかい漫遊漫歩(60)(61)2017年4月号

みじかびの きゃぷりきとれば すぎちょびれ すぎかきすらの ハッパふみふみ

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