春耕俳句会は、有季定型の俳句と和楽の心で自然と人間の中に新しい美を探求します。第五感・第六感を働かせた俳句作りを心がけます。
連載記事 - 月刊俳句雑誌「春耕」掲載

韓の俳諧

韓の俳諧(14)2020年4月号

居留民の詠んだ俳句 京都の俳句雑誌『俳諧鴨東新誌』に明治中頃、朝鮮からの投句が多く寄せられている。例えば当時、元山(ウォンサン)には数百人規模の日本人が住んでおり、狭い居留地に住みつつ、それなりの俳句を詠んでいたように思われる。

韓の俳諧(13)2020年3月号

─ 飛び石が橋に ─ 本記事9回を読んで、岡部良一氏から3句の読解に教示をいただいた。岡部氏からそれらの句は、図書館で筆写せずとも、国文学研究資料館の新日本古典籍総合データベースで読めるとも教えていただいた。さらに、東京大学史料編纂所の「電子くずし字字典データベース」やスマートフォンの活用、有料だが、凸版印刷の「高精度ОCR全文テキスト化サービス」を使用すると、古典籍を機械が読み取って解読し、活字のテキストが得られる。古い俳諧資料のは多々あり、それらの解読に有力だ。本記事9回が跳び石となり、橋がが架けられた。

韓の俳諧(12)2020年2月号

点取りを愉しむ人々 明治21年9月発行の俳諧鴨東新誌に、3名の韓半島の俳人の投句が載っている。なかでも塘雨は、月並み点数表で全国3位の成績で、他にも15位に五兮と山翠が入っている。韓半島で初代の点取王であった塘雨は、もともと対馬の人で、後に故郷の対馬へ帰ったのだと思われる。

韓の俳諧(11)2020年1月号

韓の居住者による開始 明治13年にウォンサン、16年にインチョンに日本人居留地が作られ、上田聴秋の主宰していた俳諧鴨東新(明治21年発刊)に居留地からの投句が多く残されている。

韓の俳諧(10)2019年12月号

海外詠の先駆者 海外へ旅行あるいは居住して詠んだ俳句(海外詠)の先駆者として普通に認められているのは、万延元年の遣米使節団の加藤素毛だが、より早く釜山に滞在した対馬藩士松村弥平太の句が残されている。加藤素毛は、支考が芭蕉を祖として立てた美濃派の獅子門の俳諧をたしなみ、俳誌 獅子吼は今に繋がっている。

韓の俳諧(9)2019年11月号

韓の発句を掘り出す。 白川芝山が、初編から5編までの5冊を刊行した『四海句双紙』や、桑名藩士の駒井乗邨が残した『鶯宿雑記』に、韓の人の発句が載っている。しかし、『四海句双紙』は見せてもらうのも大変である。乗邨は、松平定信の用人であり俳人でもあった。

韓の俳諧(8)2019年10月号

韓の俳諧 朝鮮国通事の俳句(補遺) 朝鮮国通事の俳句研究に、2018年韓国安修賢氏の進んだ研究論文が発表された。日本では、岡部良一氏の朴徳源の研究がある。

韓の俳諧(7)2019年9月号

江戸まで来た朝鮮通信使の他に、多数の朝鮮渡海訳官使が江戸時代に対馬までやって来ていた。近年、朝鮮渡海訳官使の研究が進み、歴史の書き直しが必要とされる。対馬だけでなく、香川県観音寺市の興昌寺でも、訳官使朴徳源の詠んだ俳句と和歌の貼りつけられたはりまぜ屏風が発見された。

韓の俳諧(6)2019年8月号

韓の俳諧 (6)─ 朝鮮国 通事の俳句(中) ─ 朝鮮国通事 朴徳源の句が残っている。鬼貫の句と似ていることが指摘されていたが、時代的に鬼貫より先に作られた句との説がある。

韓の俳諧(5)2019年7月号

朝鮮国 通事の俳句(上) 朝鮮通事が読んだ俳句が残されている。上級の通事の場合は記録も残っているが、下位の通事はどの通信使の通事か記録がない。万葉仮名のような記述のため、句の読みが問題だ。

韓の俳諧(4)2019年6月号

蕪村の高麗船の句 蕪村の句に、朝鮮通信使を見た時の高麗船を詠んだ句がある。朝鮮通信使を瀬戸内海まで見に行って作ったものと思われる。高麗船はめでたい題材である。さらに、文人画家の蕪村は、王徽之(号:子猷)の『晋書』を引いた中国の教科書的な『蒙求』によって、王徽之が船で出かけたが、入港しないで戻った故事を題材に、どこかへ行ったがよらないで過ぎて行く句を作っている。子規も倣って句を作っている。

韓の俳諧(3)2019年5月号

【千代女の献上俳句(下)】千代女は献上句を通じて最も有名な閨秀俳人であった。また韓国でも知られていた。千代女は美濃派であったが、伊勢派でもあった。両派とも低俗とされていたが、近年美濃派の再評価がされている。千代女の復権が待たれる。

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