青大将尾を長々と柳より川澄祐勝

時計草風捲きて行く郵便車高木良多

「晴耕集・雨読集」七月号 感想   柚口満

咲き満ちて力抜きたる桜かな山城やえ

人生を長く経験してくると桜を見る目も変わってくる、と言った人がいたが考えさせられる言葉であった。また、ある俳人は何年桜をみてもその年の桜が一番美しい、と語っている。なにはともあれ新しい感受性は俳句にとって一番大切なことに変わりない。
さてこの句の作者は満開に咲き満ちた桜を見て、それはあたかも力を抜いているように見えたという。咲き満ちた花はもう散るのを待つのみであるがその瞬間が一番美しかったといことだろう。

朝市の店の軒下燕来る畑中とほる

作者の住む下北半島に燕がくるのは何時ごろであろうか。やはり関東近辺から比べると春のうちでも中旬から下旬なのかもしれない。
陸奥湾に面した港町に朝市が開かれ、地元の人たちが海の幸、山の幸を気軽に買いに来る。そんなある店の軒先に今年初めて渡来してきた燕を発見。たちまち付近にいた人たちの話題になった。春とはいえ下北の地はまだ寒い。そんな中で見かけた燕の姿はみんなの心を明るくした。

借景の富士真向ひに夏館鈴木大林子

夏館を詠んだ一句である。本来、夏館を詠んだ句に多いのはその館そのものの在り様、つまり蔵があるとか古い時計が掛けてあるとか天井が高い、といった描写に重きを置いたものである。
しかし掲句はこの夏館が洋風、和風あるいは庭に滝があるとか、池が配されているとか、そんなことは全て省略をして真向いには富士山の全容がどんと見える、そんな地にある夏館と詠む。館の中の意匠などにこだわらなくてもこんな素晴らしい借景があればもうこれだけで十分である。

かげろふの中より路面電車かな藤武由美子

テレビ局に在職中、残り少ない全国の路面電車の特集を組んだことがあった。東京の都電はもとより、函館、岐阜、岡山、広島、熊本、鹿児島等々全国に今も残る路面電車を撮影した。その時に掲句のような光景に出くわしたことを思い出した。陽炎は春の強い日差しが原因で起こる現象で、ゆらゆらとものの形が揺らいでみえる。熊本城のみえる路面から直角に曲がってきた電車がふわふわと地上に浮いている様は特異な映像としてカメラに収めることができた。作者も陽炎の異形の電車が眼前に現れるまでを面白く堪能された。

たんぽぽの絮とび尽し無一物小野誠一

たんぽぽの花はよく俳句に詠まれるが、たんぽぽの絮も句の材料として重宝される。開花後の実は白い冠毛をもちその完全な球体の造形美は溜息がでるほど美しい。しかし、その完璧な冠毛も一瞬の見せ場でおわり、掲句のように風に吹かれてはかなく飛んでゆくのである。
絮がなくなったその状態をこの句は無一物と大胆に断定して成功している。まさしくこの瞬間にたんぽぽではなくなったのだから。しかし地中に根が残り一年後には黄色な花も美しい絮もまた現れるのだ。

晩節のわが手見てをり啄木忌萩原空木

石川啄木の忌日に当たって作られた一句。この句は啄木の『一握の砂』のなかの一首、「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手をみる」をベースにしていることは言をまたない。
函館から妻子、両親を東京に呼んで暮らしてみたものの、自分の放蕩の末の浪費などで啄木一家の生計は借金のなかにあり、かなり悲惨な状態にあったという。
作者は、そんなことなどを思い浮かべながら在りし日の啄木を偲ぶとともに固くなった自分の手のペン胼胝の手をみつめている。この句の作者は生涯新聞記者として活躍、この句の出ている春耕七月号で「熊野古道をゆく」の長期連載を完結した人でもある。

空海の母恋ひの径つばくらめ倉林美保

四月の「雲の峰」との合同吟行会で作られた一句。空海が開いた高野山は当時女人禁制であり四国からはるばる空海に会いに来た母上は麓の伽藍に留まるしかなかった。母を慕う空海は月に九度も急峻な道を登り降りして会いにきたという逸話が残る。これが掲句にある空海母恋の道である。
作者は女人高野とよばれる慈尊院に立ち、おりしも子育てに励む燕を注視、在りし日の空海母子に思いを馳せた。歴史の逸話を季語の燕にからめた句で、つばくらめの季語が動かない。

野の花をゆたかに葺きし花御堂宇山利子

仏生会は最近では陽暦の四月八日に行われることが多い。釈迦の誕生を祝って花御堂が作られ、小さな誕生仏を安置して甘茶を注ぐのである。
この句はその堂の屋根を飾る花に注目をしている。付近の野に咲く豊かな花を駆使して飾られていたと。少ない檀家衆で作った心の籠った花祭がうれしい。

蝌蚪湧きて水に暗がり生まれけり木﨑七代

水の中に群れるおたまじゃくしの群れを凝視して成った一句で、平面的な写生を衝き抜けた佳句である。普通この句のような情景に遭遇したとき、みなさんはどういう風に句を纏められるであろうか。単に無数の蝌蚪の群れがかたまって水の中が真っ黒になるほどでした、では単なる写生である。この句は中七から下五にかけての把握が非凡である。水に暗がりがうまれた、という把握に感心した。

回るまはる綿菓子春をふくらます窪田季男

春祭りの中での嘱目吟であろうか。境内の出店のなかに見つけた綿菓子製造機、その中に棒を突っ込めばふんわりとした綿菓子がどんどん膨らむ。
小さな子らには魔法のお菓子作り機にみえたのかもしれない。作者にはその模様があたかも春がふくらむようにみえたという。回るまはる、の字余りが効いていることに気が付く。

若冲展出でて新緑目にしみる花里洋子

若冲の極彩色画夏近し松島徹

今年のこれまでの絵画展で なんといっても話題を集めたのは[若冲展]であった。四月下旬からの一カ月間上野の会場には長蛇の列が続き四時間待ちの日もあるという盛況であった。
伊藤若冲は主流派の狩野派とは別の道を歩んだ異端の画家で徹底的に描き込まれた繊細な描写技法、動植物の美しく鮮やか色彩等その独特な感性に酔いしれるファンは多い。
さて掲句二句はその展覧会を素材にした作品である。花里さんは華やかな画群を見た後の外の新緑に関心をもった句を、松嶋さんは「赤の若冲」に代表される極彩色の数々を堪能して夏の到来を予感する句に結び付けている。普通絵の展覧会を素材にした俳句はなかなか難しいものがあるが、この二句は若冲という際立った人物を配していい句になっている。