「晴耕集・雨読集」12月号 感想  柚口満

木犀の零れ大地に香り沁む山城やえ

 私のホームドクターとしてお世話になっている近くの小病院の前に金木犀の木がある。高さ5メートルぐらいの大木で花の全盛時には院を訪れる人たちはそのいい香りに酔いしれる。
 昨年の秋に到来した台風の翌朝、病院の前庭はオレンジ色に広く覆われ改めて金木犀の花の量と嵩に驚いたものである。
 掲出句を読んで思い出したことを記したがこの句「大地に香り沁む」の表現が絶妙で木犀がお世話になった土にその香りをお裾分けしているようだ。

もてなしは虫の音ばかり母の家児玉真知子  

 母という思い入れの深い対象を俳句に詠み込むことは思った以上に難しい。やれ母の形見とか、母の味付けとか、とかく類想に走りやすいし主観の押し付けにもなりかねない。
 その点この句はさりげない詠みかたの中に母との淡々とした関係が提示されていて忬情がある。
 実家の母の家を訪れもてなされたのは虫の音だけだったのが新鮮だ。虫の音色のなかで交わされる会話、2人だけの時間がゆったりと流れてゆく。

邯鄲の草刈る袖へ縋りつき山坂妙子

 秋の虫の中でも邯鄲はそう手軽に声を聞き、また見られるものではないだけに都会の人にとっては掲出句は羨ましい景である。
 淡い黄緑色の翅と長い触覚を持ち2センチにも満たない体からル・ル・ルとえも言われない声を発する邯鄲、あるひとは夢をみるような声音」と表現する。
 草刈女の袖に弱弱しく縋りついた虫をやさしく草の奥に放しやる光景までもが想起される一句

千年の樟をまなかに踊の輪酒井多加子 

 「千年の樟」が効いている俳句。在所の寺や神社の境内、あるいは学校の校庭にある千年を誇る大きな樟を真ん中にして今年も盆踊りが始まった。在所の人口は年々都会にその人を奪われ過疎の一途を辿っているがそれでもまたこの踊りを懐かしみ人が集まる。
 千年の大樟は産土の守り神、幾星霜を重ねて踊の輪の歴史を真ん中でずっと見続けてきた。過疎化を含めた故郷の在り方が気になる昨今でもある。

斥候につづく一陣稲雀大塚禎子

 稲が実り穂が垂れだすと農業に携わる人と雀の激しい戦いが展開される。実り始めの柔らかい穂を斥候役の数羽が見定め役として到来、食べごろとみると多くの群れを呼び込み文字通り丸坊主状態に食べ尽くすこともある。
 この句、斥候という戦闘用語を上手に使い、一陣の稲雀の様子を躍動的に描いている。

海境の青から藍へ鳳作牛窪肖

 9月17日は俳人、篠原鳳作の忌日である。鹿児島市出身で中学校の教師のかたわら「ホトトギス」に投句。のちに吉岡禅寺洞の「天の川」に拠り無季俳句を実践した。その代表作の「しんしんと肺碧きまで海の旅」はあまりにも有名である。
 掲出句もこの句をベースに作られたもので、海境の微妙な青さの中に30という若さで逝った鳳作を静かに偲んだのである。

星近きふるさとに寝て虫しぐれ窪田季男

 ふだん都会に住みながら、この句にあるような故郷をお持ちの方はつくづくと羨ましく感じてしまう。星が近いというから生まれ故郷は高地にあるのだろう。
満天の煌めく星を飽きることなく眺め、眠りに就けば虫時雨がわが身を包む。天地の恵みを思う存分身に浴びれば明日からの活力は倍増する。

姦しくやがて哀しく法師蟬黒田幸子

 朝晩に秋の気配が濃くなる頃、蟬の仲間としては一番遅く鳴き出すのが法師蟬、つくつく法師である。鳴き声に特徴があり小刻みな序章にはじまりオーシイツクツクを繰り返し最後はジーと納める。昼間は激しく競い合うように一途に鳴いていたのに夕方には1匹で静かに哀しく鳴くとこの句は述懐する。
 法師蟬の傍題に寒蟬があるがこれは中国での呼び方、この蟬の声が途切れてくると秋は足早に深まる。

みちのくの山暮れ残る盆花火坂下千枝子

 みちのくのお盆を詠んだ一句であるが、地域柄陰暦、旧のお盆であろうか。
 先祖の霊をお迎えし、もてなし、そして送るまでの諸行事が4日間にわたり行われるが、この地では花火を打ち上げるのが恒例となっているようだ。
 晩夏の残照に暮れ残るみちのくの山の稜線、これを待ちかねたように花火が始まる。花火の終わった後の寂しさも感じられる一句である。