「晴耕集・雨読集」9月号 感想      柚口 

関東平野日暮を待たず夏の月山田春生

 夏の月の傍題に「月涼し」があるが、掲句のように昼間の酷暑を追いやるように出る日暮れ近くの夏の月には、涼しさを求める願望が含まれているのではなかろうか。
 関東平野と上七の出だしがその広大な土地を大きく俯瞰視するようで効果的だ。昔でいう相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野といういわゆる関八州に早めに昇る夏の月。今日一日うだるような関東ではあったが、この後は静かで涼しい平野となり多くの人々は癒されたのである。

大瑠璃や飯盒で汲む沢の水升本榮子

 掲句のような俳句を読むと、昔若かりし頃の自分の一場面を思い出す人も多いのではないか。夏休みになると渓流沿いの山に仲間と分け入りキャンプを張って自炊をした思い出がよみがえる。
 大瑠璃は高い木の、それも天辺で高く澄んだ声で囀り、心が洗われるような美声を発する。
 沢の水を飯盒に汲んで朝ご飯を焚く準備にとりかかる。傍らに置いたラジオからは気持ちのいい音楽が流れてくる。
 そんな事柄が脳裏に浮かぶほど、この句には在りし日の思い出を蘇らせる清冽な雰囲気があった。

自主籠もり解け外出の白日傘古市文子

 新型コロナウィルスの流行が長期化するなか、この未知の体験が日本でもいろいろな分野に深刻な影響を及ぼしている。中でも今朝の新聞が報じているのであるが、この長引くコロナ禍で人間の性格が変容しつつあるとの報告にショックを禁じえなかった。
 さてこの句の自主籠り解け、とは緊急事態宣言解除のことを指す。この日から我々高齢者もやっと三密に注意しながら外出できるようになった。閉ざされた心の一端が軽くなったことを象徴するのが白日傘ということだろう。ウィズコロナという言葉があるが、しばらくはコロナ禍と上手く付き合わなければならない。

湿らせて一夜かぎりの蛍籠唐沢静男

 暗闇にともる蛍の光は古くから人々の心をとらえ、多くの歌や詩、俳句に詠まれてきた。蛍の一生はまことに儚いもの、水や土の中で過ごした幼虫は1年間をかけてサナギから羽化、そして蛍となってわずか1週間で命を終えるという。
 一方、人間の方は蛍籠を作ってこの美しくも儚い蛍の明滅を籠超しに楽しむ。掲句は、蛍籠に一夜限りのお湿りを施して蛍の明かりを享受したと詠む。夜が明ければそっと小川の端に逃がしたに違いない。

五月雨の傘の中までうすみどり酒井多加子

 五月雨(さみだれ)はおおまかに梅雨と同じ意味で使われるが、梅雨が時候を含むのに対し五月雨は雨そのものをさすといわれる。
 掲句はその微妙な季語の違いを踏まえて作られた。梅雨の鬱陶しい不快感を詠むのではなく、田植え時の万物が緑に染まる優雅さを前提として中七から下五にかけての「傘の中までうすみどり」と詠みあげた。五月雨という季語の効果が十分に発揮された一句。

青葦や束なす風の大うねり武井まゆみ

 滋賀県の湖東を故郷とする私は、青葦原という言葉に妙に反応してしまう。湖東の岸辺には昔ほどではない広い範囲の葦原が茂り、近江八幡の西の湖めぐりではその壮観で圧倒的な葦の群生がみられる。
 この句はその大葦原を吹きまくる、まるでドローンで俯瞰したような風を詠んだ。特に束なす風の大うねり、と把握した感性が秀逸だ。遥かな昔、豊葦原瑞国(とよあしはらのみずほのくに)と美称された日本の国であるが風に吹かれる葦の風景は今も変わらない。

青梅は固き音立て洗はるる内海トミコ

 梅雨を迎える頃になると急に梅の実が太ってくる。固くしまった青い実はいかにも瑞々しく酸味が強い。青梅のうちに落として梅干しにするが、この句は洗われる音が固い音を立てたと詠む。固い音がいかにも小気味よく青梅の個性を引き立てている。

竹婦人父の匂ひのころがれり髙島和子

 竹婦人とは竹や籐を円筒形に編んだ籠のことで、暑い夏の夜にこれを抱えて涼をとるものであり、俳諧味とともに艶な名称である。亡くなった父の形見の竹婦人には懐かしい匂いが残っているが、ころがれり、の表現にこれをどう始末をしようかとの思案もみえる。

燕の子橋を上手にくぐりけり原田みる

 毎年、春になり律義に渡ってくる燕が個人の家の軒先や駅のホームの屋根下に営巣する光景はほほえましいものがある。そこで育った燕の子がもう近くの橋の下を潜るようになった。一見小ぶりの子燕が親燕に遜色なく飛翔するさまが爽快に描かれている。