「晴耕集・雨読集」  7月号 感想          柚口  

包丁は関の孫六初がつを池内けい吾

 美濃の国、関の刃物は古く鎌倉時代より現在に至るまで人気を誇り、数多くの刀剣職人を輩出してきた。なかでも有名な関の孫六の銘は日本刀を経て今では包丁として全国の厨房に受け継がれている。
 この句の作者は、この関の孫六の包丁で捌いた初鰹を食べたという。初物の生きのいい鰹を切れ味抜群の包丁で鮮やかに切り分け盛り付けられた大皿、なんという贅沢であろう。動詞を入れない句の調子も申し分なく一読して気持ちのいい句に仕上がっている。

燻つてばかりの春の落葉かな伊藤伊那男

 晩秋から初冬にかけての落葉はいわゆる枯れた葉が落ちるのであるが常緑樹のたとえば、椎や樫、檜などは晩春に葉を落とす。春落葉である。大きな根方に枯れ切らずに落葉が溜まっている情景には胸を打つものがある。
 掲句はその春落葉の焚火の光景である。まだ青さが残る落葉は火をつけても燻るばかりでその煙は地上を這うように漂っている。燻ってばかりの、の措辞に春落葉への静かな抒情が感じられた。

母の日を妻をねぎらふ日と決めて窪田明

 母の日という季語の本意は育て上げてくれた母の愛に感謝するというものであるが、我々80前後の年齢ともなればこの句がいわんとすることに共鳴する部分も理解できるのである。
 勿論、亡くなった母を思慕する念は保ちつつ、今では奥様を労う日と決めているというのは素晴らしいことではないか。奥様を労いながら夫婦末永く心安らぐ日々を送って頂きたい。

降り出しの雨粒大き立夏かな実川恵子

 立夏を迎えた感慨を雨に見い出した一句である。外出をして雨に出会うことは多々あり、その降り出しに空を見上げた経験は誰にでもあるもの。
 この句の作者はその降り出しの雨粒の大きさに立夏の到来を感じたという。春の雨がしとやかなのに比し、その降り出しの一粒ずつが大きなことで夏に入ったことを実感されたのだ。

木漏れ日の差す蜘蛛の囲の黄金色山岸美代子

 蜘蛛の巣、蜘蛛の糸の完全なものをみるとその造形美に目を見張ることがある。蜘蛛にとってはその一糸乱れぬ捕虫網は生きてゆくための餌を得る道具である。
 この句の作者は森の中で素晴らしく美しい蜘蛛の囲に出会ったと報告する。折からの木漏れ日を浴びたその巣の糸は黄金色に輝いていたと詠む。
 蜘蛛と獲物の修羅を前にした静寂の中の金色の巣に立ち会えた幸運を感じるとともに、その後の蜘蛛の囲の混乱ぶりもが脳裏を過ぎったのかもしれない。

二番子に藁しべ足せる親燕𠮷村征子

 歳時記では燕は春、燕の子や親燕は夏の季語とされる。燕は普通二度産卵するといわれ6月から7月頃に生まれる雛は二番子と呼ばれる。
 掲句はその二番子を詠んだもの、一番子が巣立ったあとの傷んだ巣を修復すべく親燕がせっせと藁しべを運んでいる様子を写生したもの。
 春の巣作りから二番子の誕生までを見守ってきた作者の暖かい眼差しが感じられる一句。

やぶれ傘開いて閉ぢて破れけり田村富子

  やぶれ傘と聞いてそれが植物の名前だと聞いてびっくりしたことがあった。俳句のおかげで得をした。
 さてこの句は「やぶれ傘」という名前を用いて俳諧味のある句に仕上がった。若葉が出てだんだんと開き名の由来である半開きの番傘のようになったやぶれ傘、やがて大きくなって閉じてしまいその葉は本当に破れてしまったという、この見立てがこの句の売りである。

雲流れやがて星降る代田かな梅澤忍

 満目の代田が水をたっぷり湛え、鏡のように静もる様は田植えの前の壮観さがある。
 この句は、代田に映る流れる雲と満天の夜空に煌めく星を配し、大きな景を美しく詠みこんでいる。

人気なき夜の酒場や熱帯魚酒井登美子

 夜の酒場とあるが、この場合は居酒屋ではなくバーテンダーひとりが仕切るスタンドバーなどを想像してみたい。コロナ禍で客が途絶えた店で熱帯魚相手に愚痴をこぼす主の胸の内がせつない。

鮑海女空を蹴りあげ潜りけり佐藤さき子

 鮑を海に潜って採る海女さんの労働は大変きついと聞く。命綱をつけて重りをつけ素潜りし、岩の隙間の鮑を見つけるのは至難の技。中七から下五にかけての行動にあらためて鮑海女の強靭さを思った.