「晴耕集・雨読集」 3月号 感想          柚口  

富士映す湖平らかに初景色升本榮子
 元日のめでたく、そして神々しさに満ちた四方の風景を「初景色」という。新年を迎えると、風光明媚な景色だけでなく普段見慣れている自宅界隈の景色までもが新鮮に見えるのは不思議なものである。
 この句は正真正銘、これぞ初景色!といってよいものであろう。雲ひとつない快晴の青空のもと眼前に雪を頂く富士山が鏡のような湖にくっきりと映っている景色。こんな息を吞むような瑞気に満ちた初景色にお目にかかれば、誰しも今年一年の幸運を確信すること間違いなしである。

替済みし仏間にしばし座す朝妻力

 畳替えという風習は最近では季節あまり問わないようであるが、本来は新年を迎えるために替えるものとして冬の季語とされる。
 作者とは俳句を通して長いお付き合いがあるだけに掲句は身に沁みるように理解ができる句である。瀬を迎え奥様の眠られる仏間の畳替えを思いつかれたのであろう。下五の「しばし座す」に万感の思いが籠る。子供たちは外で所帯を持ち可愛い孫にも恵まれた。そんな近況の思いを清々しい畳の上で報告された。あと数日でお孫さんたちがお年賀に訪れる。

声大き内緒話や日向ぼこ阿部悦子

 世の中、冬を迎えても最近は暖房器具が充実して天然のお日様から暖をいただく日向ぼこの光景をあまり見なくなった。しかし北風を遮断した日当たりのいい場所で当たり障りのないお喋りを楽しむのは至福のひとときではある。
 この句、「声大き内緒話」の言い回しが抜群の効果をあげている。勿論この句の日向ぼこは子供や若いご婦人のものではない。内緒の話は普通は小声でひそひそと交わすものであるが、それが大声とは。耳が遠くなっても元気なお婆さんたちだ。

数へ日を電球ひとつ取り替へて武井まゆみ

 年の瀬の些事を捉えた句であるが、事象が大げさでないぶん行く年の感慨がしみじみと滲み出た作品となっている。
 主婦にとって年末にする作業は多岐にわたる。文字通りあと数日ともなるとその切迫感が相当なプレッシャーにもなってくる。そんな時に電球のひとつが切れてしまい取り替えたと述べる。そういえばこの電球も随分と長持ちしたもんだ、と偲ぶのもゆく年の風趣である。

狐火の話佳境に猟師宿深川知子

 狐火という現象、私は見たことがないが小さい頃は周辺の人たち、また生前の母親も見たと言っていたので存在するものだと思っている。
 この句は、狩猟期に入った猟師の宿での夜の団欒のひとこまを詠んだもの。今日の獲物の手柄ばなしが済んだあと狐火の話に及んだという。まことしやかに詳細を話す老いた猟師に、半信半疑の若い猟師。大いに盛り上がったらしい。このような季語にもぜひ挑戦して
もらいたい。

湯気で売る中華饅頭歳の暮柿谷妙子

 この句の眼目は上五の「湯気で売る」である。慌ただしい歳の暮の町なかの店頭で、蒸籠から盛んに湯気をあげて真っ白な中華饅頭が売られている。
 寒い冬空のなかに立ち上がる湯気につられて町ゆく人たちはついつい歩を止めて饅頭を買わされて仕舞うことになる。
 師走の喧噪のなかの一風景を的確な表現を用いて描写した一句である。

雪吊の縄のさばきにくるひなし青柳園子

 北国の冬の到来を告げる作業のひとつに雪吊がある。雪の重みから木々の枝を守るのである。掲句はその作業の縄の捌きの寸分のくるいのない手腕をみて驚き感心をしている。大きな樹木に添って孟宗竹を立て、その先端から各枝へ何十本の荒縄を放射状に張る「りんご吊り」の美しさは一見に価する。

括られて薄日に開く残り菊後藤紀美子

 俳句という文芸、動物、植物をはじめしばしば残るものの哀れみを詠むことが多い。その対象物の全盛期を知っているからの反動であろうか。
 この句も残菊の健気さ、哀れさを詠んで余情を出すことに成功している。それは括られて、薄日という語彙を巧みにつかっているからだ。

浮寝鳥街に塒の橋あまた村山千恵

 普段川で見かける浮寝鳥であるが、それぞれに塒の橋の下があるように詠まれた一句。いつもまとまって群れを成し、自分の縄張りの橋の下に定住しているとの想定が楽しく面白いではないか。
 隅田川の両国橋下の鳰、言問橋下のゆりかもめといった具合に橋の下の水面は浮寝鳥の揺籃なのだ。