「晴耕集・雨読集」12月号 感想             柚口満 

覗き見たくなる南蛮煙管かな池内けい吾

 南蛮煙管、思草という植物の花を俳句を始めたての私に教えてくれたのは先師の棚山波朗さんだった。芒などの根方に寄生するこの植物は中々見つけにくく、生育する場所を知っていないと発見するのが困難なのである。
 作者も多分、南蛮煙管の生える秘密の場所を知っていてお馴染みの芒の群れをかき分け覗き込んだのであろう。秋に薄い紫色の煙管のような首を曲げて咲く花を吟行仲間に説明している図かもしれない。覗き見たくなる、という言い回しがこの花にはぴったりで破調のリズムの効果もでている。

峡の日を溜めて桃吹く開拓地児玉真知子

 掲句を詠んで季語の「桃吹く」を理解できる人は相当俳句に馴染んだ方である。綿は秋の季語であるが、その傍題に綿吹くがあり、そして桃吹くがある。綿は実を結ぶと2か月後に裂けて外に白い綿を吹き出す。これが桃吹くなのである。
 山間の開拓地が綿の生産地になっているのであろう。開けた綿畑が綿を吹き出す頃を迎え、峡の濃い日差しを浴びながら次々と桃が吹き出した。秋の日と綿の白さが印象的な光景だ。「桃吹く」という季語を心に留めていただきたい。

跡継ぎの子を連れてくる盆の僧高野清風

 お盆には先祖の霊を迎え、家でもてなしそして送る諸行事が行われる。このような盆のかたちが完成されたのは江戸時代辺りからという。
 精霊を迎えた檀家に今年も馴染みの僧が棚経をあげにやってきたが跡継ぎの我が子も連れてきたという。昨今のお寺の営みは檀家の減少や跡継ぎのことなど大変だと聞くがこの菩提寺は万全の備えが出来たらしい。そんな社会的な事象までもが伺える一句である。

水澄みて父は記憶を失くしゆく伊藤洋

 現実の切なさを詠んだ一句である。5、60代の人のほとんどが体験する親の介護の問題、作者もお父様の面倒をみるために数年前に北海道に戻り、日々、奮闘されている。
 体は丈夫でも記憶の問題は医学的に見てもまだまだ未開拓の域を出ず、日頃の少しずつのその進行に胸を痛められているのだろう。上五の「水澄みて」の季語のインパクトが強い。人は赤ん坊として生まれ、赤ん坊に還る、といわれるが季語のすごさを見せつけられた思いがした。そして淡々とした冷静な詠みぶりが人の心を打つ要因となっている。

鶺鴒のつつつと走る又走る大塚禎子

 鶺鴒は身体の色、頬の色、尾の長さなどで名前が異なってくるが、絶えず尾を上下に動かす習性があり「石たたき」「庭たたき」の別名もある。
 さて、この句で感心するのは鶺鴒の動きの描写である。皆さんも同感だと思うがこの鳥の飛翔の様子をはっきりと見定めた記憶はないと思う。大概は尾で地面を叩くあの姿である。そして地面を素早く動く姿が活写されたのが中七から下五のかけての掲句だ。「つつつ」と「走る又走る」にその動作が余す所なく表現されている。鋭い観察眼に驚いた。

牧の牛里へと帰る雁渡し小池伴緒

 季節の移り変わりを詠んだ忬情味溢れる一句。畜舎内で飼われていた牛が草原に放たれて半年、この間、自分の好きな養分たっぷりな草を食み適度な運動と日光浴を満喫した牛の群れたちにも里の畜舎に帰る時がやってきた。
 その時期の目途は雁が渡来する頃に吹く雁渡しの頃、管理に当たってきた牧夫たちにも愛情を注いできた牛との別れがある。季語の雁渡しの使い方が上手い句で、ほどなく草原の空には雁が棹を組んでやって来る。

色褪するのも一斉に曼珠沙華菰田美佐子

 曼殊沙華、彼岸花は不思議な花である。まず秋の彼岸を知っているようにこの時期に咲くこと、蕾から開花、そして姿を消すまでの期間の短い事だ。その辺を掲句は一斉にと詠んだ。梵語で天上の赤い花を意味する曼殊沙華。気にかかる花だ。

焼芋を二つに割りて一人食む宮沼建夫

 作者の奥様が先年亡くなられたことは春耕誌の作品群で存じあげていたが、この作品は在りし日の妻を偲んで作られたものと解釈させてもらった。
 焼芋を2つに割った瞬間に出来た句だ。昔日は仲良く分けた焼き芋を今は1人で賞味する。焼芋の介在、斡旋が見事だ。

登り来て色なき風に抱かるる山田えつ子

 秋風の季語の傍題には白風、素風、金風とあるが色無き風は紀友則の「吹き来れば身にもしみける秋風を色なきものと思ひけるかな」に基づく。山、あるいは丘の頂きに立った作者はその透明感あふれる色無き風に抱かれたいう。秋風では風趣がでない。