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武田花果第二句集『手毬』を読む ─春耕賞作家の底力─ 蟇 目 良 雨  

平成六年以前から平成十七年までの句業が第一句集『高嶺星』に綴られていた。第二句集である今回の『手毬』は、従って平成十八年頃から平成二十九年の春頃までの作品と類推してよい。類推という言葉を使ったのは『手毬』は編年体によらなくて季節別に仕立てられているからである。どちらの編み方が良いということはないだろうが、作者 の実人生の変遷が曖昧になるのは季節別仕立ての方である。ここで武田花果さんについてよくご存じのない方に言わでもがなのことを少し書き鑑賞の手伝いにしたい。 氏は瀬戸内の大三島の出身で高校までを今治で過ごし、大学は米国ロードアイランドで初めの二年間を建築学科で学び、後半の二年をネブラスカで英文科で学ぶ。 帰国後同郷の武田禪次氏と結婚、現在は四人の子供の母であり三人の孫を持つ〝好々婆〟である。平成五年に春耕に入会したが、それ以前にも御母堂池田都々女(ホトトギス俳人)さんに俳句指導を受けていた。皆川盤水師時代は武田孝子を俳号にしていたが平成二十九年から武田花果に改号した。  さて、俳句は選を受けるために師のフィルターを通過せざるを得ない。『高嶺星』は皆川盤水のフィルターを通して武田孝子の俳句世界が表現されていた。皆川盤水のフィルターとはどんなものかおさらいしてみると、盤水の初期は「かびれ」のホトトギス調を基調 とし、その後「風」の社会性志向を通し、中期の即物具象やさらに自ら深化を試みた即物陳思へと変化して来た。全体を通して言えることは骨法の正しい格調の高さを追求する俳句である。人はこれを称して「盤水調」または「春耕調」と呼び親しんで来た。  『高嶺星』を見ると、この「盤水調」に満ちたやや武骨ながらもどこかに懐かしい昔の日本の匂いのする光景が展開している。どの旅吟も土地の特徴を捉えて匂い立っているし、北京在住時代の海外詠もわかり易く描かれているのが特徴的である。  『手毬』をそうした観点から読み進めてみるとどうなるであろうか。平成十八年から盤水師の亡くなる平成二十二年までの約五年間は相変わらず「盤水調」を学び、その後の五年間の句業は棚山波朗現主宰の「春耕」と同時に、盤水門の伊藤伊那男主宰の「銀漢」にも参加しているので二つの色調が出てくるはずである。  私見ながら波朗調は沈潜した抒情の世界、伊那男調は明るい諧謔の世界が特徴といえようか。以下、作品を通してその特徴を剔出してみる。章立ての前半が波朗調、後半が伊那男調と見立てたのは私の独断過ぎるかも知れぬが…。

【新年の章から】

あるなしの埃清しき松納
さうとわかるまで富士遠し初日影

 取り外した松飾にある僅かな埃を見て、穏やかな松の内を回顧し、いつも見慣れていた富士も初日の中ではすぐにそれと判らず遠くに見えたという、世の中の景が全て改まる元朝の特徴を捉えている。 亀が押し鶴が引きゆく宝船 笑初涙もろきがまつさきに  現物の宝船を見た写生なのか、想像で作ったものか不明だが、もし亀と鶴を反対に組み合わせたら句は弱くなる。亀は夫禪次氏、鶴は作者を暗示する。夫唱婦随の武田家だが時にはこの句のように婦唱夫随でもある。涙もろい人から先に笑い出すなどと実に多感な家 族であることが思われる。

【春の章から】
日かげより月かげの濃き枝垂梅
開くにも散るにも力梅白し  
枝垂梅を昼も夜も見続けた結果得られた美の世界。美への執念を感じさせる句。梅が開く力はだれもが言えるかもしれないが、散るときの力までは中々言えない。梅は散り時を悟って最後の力を尽くしている。
亀鳴くを聞きに飛鳥の御陵まで
囀を源氏画帖の開け閉ぢに  
飛鳥の御陵の中には誰のものか分からぬものが未だ多く存在する。そこでは亀も鳴くだろうと旅に出る諧謔の精神。源氏画帖の美しさに足らぬものは音だとばかり囀を加えてみた大胆さ。
【花の章から】
散るときの蝶となる花ならぬ花
落花が蝶のようだとは月並ながら、蝶になる花びらも、ならぬ花びらもあることを見抜いた写生の力が光る。
川面に灯入ればにはかに花疲
 濠の面でもなく沼の面でもなく、さてどこの川の面であろうかとあれこれ想像する楽しさ。誰にもある既視感であろう。
【夏の章から】
生絹めく襞を重しと白牡丹
軽鳧の子に羽とも言へぬほどのもの
花びらの襞が生絹(すずし)のように透き通っていながら重量感のあることを見抜いた白牡丹への賛辞。確かに軽鳧の子の羽は羽とも言えぬ硬貨のような小ささである。
積み上げて滑りがちなる藺座布団
いかにして攻めむ火色のかき氷  
会が終了し藺座布団が積み上げられてゆくが積み上げるにつれて滑ってしまう。庶民的な会合のようにも思えるが藺座布団を用意できる会とはどんな会なのか興味が湧く。二句目は苺氷水を焔に見立てた諧謔。
【秋の章から】
返すより押し出す波や施餓鬼舟
渾身の力蘂まで曼珠沙華
寄せて返す波に乗る施餓鬼舟を、力づくで押し出そうとするとは。現世にいつまでもしがみついてはいけないと諭しているのだろうか。力に満ち満ちた曼珠沙華を描き切った。
秋刀魚焼く女の細身火に耐へて
颱風の東京の夜を丸洗ひ  
秋刀魚を焼く何でもない光景ながら、ここにある火は業火のようであり、女の耐えるべき火に見えてくる不思議さ。昔の颱風は夜やって来て一家族が燈火の下に集まって震えていた記憶が蘇える。丸洗いされている家の雨漏りも懐かしい。
【冬の章から】
浮ぶより沈むに力雪蛍
裸木の一枝も日差し逃がさざる  
綿虫のこうした見方はよくあるがやはり句に纏めるための力は必要である。〈冬の水一枝の影も欺かず 草田男〉に劣らぬ観察眼で裸木の本質に迫った句。
まなぶたの内側燃ゆる日向ぼこ
落ちさうな都庁の熊手反りて見る  
瞼の内側が燃えているところが詩。都庁の設計者丹下健三は今治の人。合理的な丹下は熊手を飾る仕掛けなど考えもしなかったであろう。都政に神頼みの精神を持ち込んだ知事は誰だと言っているようだ。 【英語訳俳句より】  
英語訳俳句が巻末に三十句掲載してある。滞米生活十三年の友人たちと久闊を叙したいからという。内一句に触れる。
At the May sumo match
soap fragrance of an audience
next to us, smells fresh
大意は「五月の相撲大会で観客の一人の石鹼の匂いが隣りの席からしてきた」。 花果さんの句は 夏場所の石鹼匂ふ隣枡  相撲の俳句は難しいと言われる中で「ひと風呂浴びてから相撲観戦に来た近くの旦那衆の姿が浮かび上がる」佳句である。  花果俳句はしたたかに上質で取り上げた句はどれも「短冊に書いて堂々たる風格がある」ものばかりである。平成二十八年度「創刊五〇周年記念」春耕賞受賞作家に相応しい句集と感じ入った次第。