※第57回俳人協会賞一次予選通過作品

蟇目良雨第三句集『菊坂だより』を読む     萩 原 空 木

自在な境地に遊ぶ

 蟇目良雨編集長が句集『菊坂だより』を上梓された。立て続けの句集に驚嘆し、敬意を表するばかりである。弱輩の私が鑑賞を述すなど恐れ多いことだが、珠玉の作品群から作句の骨法を学べとのご示唆と受け止め、僭越ながら拙文を書かせていただく。
 句集は平成十一年から五年間の分を収めているが、この短期間に、海外を含めて訪れた地の多さに驚かされる。最初に土地土地で詠んだ挨拶句から拾ってみた。

昼蛙丹後は酒のうまき国
春風にひらひら与謝の猿えてがれい鰈
ピンと立つ丹後宮津の葱坊主
冷酒に色づく木花咲耶媛

 昼蛙の句は、昔であれば徳利瓢簞を提げ歩いているような飄逸さがあり、季語の斡旋が絶妙だ。春風の句は作者特有の俳画ふうの洒脱が味わい。葱坊主の句は宮津節の一節「丹後の宮津でピンと出した」から。個人的な思い出で恐縮だが、学生時代に宮津の学友の家に招かれ、玄関の奥から宮津節の三味の音が聞こえてきた。父君の粋なもてなしであった。ピンと立つ葱坊主の句も同様で、当地ならではの機知が手柄である。
冷酒の木花咲耶媛は武田花果さん。最上級の賛辞にほんのり赤ら顔の花果さんが目に浮かぶ。

山姥の腰紐に似て蝌蚪の紐
涅槃図に出前の届く大き声
酒買ひにをんな来てゐる燕の巣
麦秋や脚気検査のゴムの槌
山の辺のでこぼこ道を今年米

 意表をついた可笑しみは、いわば自家薬籠の玉手箱から自在である。一句目の蝌蚪の紐。山姥の腰紐みたいと言われると、そうかもと頷いてしまうから不思議である。山姥を実在のように扱っているところがお惚け。涅槃図の句は、み仏の神妙な世界と俗世の声のアンバランスが捻り技。燕の巣の句は、やがて生まれくる雛と女性陣の喋々の図の想像が面白い。麦秋の句は脚気検査への大胆な飛躍が見事で、昔の光景につい思い出し笑いしてしまった。今年米は席題句かもしれない。でこぼこ道との取り合わせの妙。いずれも、宙から句を掴み取ったような発想の豊かさがある。
 対象を真正面に見据えた基本の写生句からは、学ぶものが多い。

やはらかに膝を折りたる春の鹿
忽然と空に吸はれし秋の蝶
朝市に着くや捌かれ能登の鰤
豆殻を積んで塩小屋北閉ざす
闘牛の互角鼻面地を擦りて

 春の鹿の句は、言外の萌え出づる若草と相俟って、「やはらかに」の詠み出しがやさしい。駘蕩のそこはかとない抒情も加わった。秋の蝶の句は、風に高舞いした一瞬を切り取り、「空に吸はれし」と捉えたところが出色。朝市の句は鰤を捌く手際よさが如実であり、豆殻の句は叙景が具体的で、ともに能登の生活ぶりが伝わってくる。闘牛の句は、相譲らぬ決闘シーンが眼前で展開され、「鼻面地を擦りて」の具象に臨場感がある。
 写生句の勘所に比喩表現が巧みである。

水馬の行者跳びして鏡池
闇のもの拾ふ仕草に蓮根掘る
天心に溺るるごとく揚雲雀
懸大根して砦めく御師の山

 水馬が「行者跳び」をするという。熊野古道で見かけた山伏は、木の根道を軽々と足早に過ぎて行った。瞬時に足の置き場を見定めつつ。行者跳びは観察眼が生んだ発見である。蓮根掘るの句は、泥水の中の動作が比喩により深化され、季語の本意に迫っている。揚雲雀の「天心に溺るる」は、写生を詩的に昇華させた表現。懸大根の風景は幾重にも高く積まれて物々しいが、「砦めく」がその雰囲気を伝えている。
 心情が滲んだ句にも注目した。感銘句を挙げてみる。

夏蝶の触れ合ふ音や南谷
ひた濡れし湯殿の神やほととぎす
二上山の妹背を分けて秋の風
白鷺は考へる壺魚を呑む
ふるさとの水の甘さよ鳥帰る
路地抜けてまた旅人や秋の風

 夏蝶の句は、聞こえないはずの音を聞いた鋭い感性が、静寂を一層深くしている。ほととぎすの句は、雨だけでなく時鳥の声にも濡れているようで、雨中に御山の霊気が漂う。二上山の句は、時代を経てもなお消えない大津皇子と大伯皇女の哀切。秋風が今も二人を分けて過ぎてゆく。白鷲の句はパスカルの前書がある。白鷲の呑み込んだ魚が、長い首を膨らませて落ちる様を壺に見立て、名言変じて名句に。鳥帰るの句は「割烹ちよだ廃業す」の前書がある。ふるさとからの「鳥帰る」に万感の思い。最後の句には「句集『神楽坂』なる」の前書。次はどんな広野を行くのだろうかと、我が身を芭蕉に擬した趣がある。
 家族を詠んだ句が多いのも特徴で、中でも初孫にそそぐ眼差しがやさしい。

身籠るや薔薇の芽吹きもやはらかに
色鳥の来る頃赤子授かりぬ
臍の緒を貰ひ忘れて秋の暮
秋めくや赤子は舌を鳴らし初め
渡り鳥日に日に太る赤ん坊
高楼に端午の白き雲が触れ
菖蒲湯に孫抱いてゐる不思議さよ
掌に乗るベビー靴小鳥来る
松過ぎの象の大きな座り胼胝

 薔薇の芽吹きの明るさは、そのまま初孫を待つ胸の内。誕生となれば、色鳥から渡り鳥まで四句を連ね、好好爺ぶりが微笑ましい。臍の緒を貰い忘れた小咄は秋の暮なればこそ。このおおどかさは春の暮では付き過ぎであろう。端午の句は帝国ホテルでの祝宴。「白き雲が触れ」が実に爽やかだ。菖蒲湯の不思議な気分も初孫ならではのもので、口吻がそのまま句になった。「掌に乗る」の句は、靴も小鳥も、軽さ、小ささが表れて愛らしい。松過ぎの句は前書があり、一歳五か月ほどになった初孫と上野動物園めぐり。ベビーカーに、「ほら象さんだよ」と話しかけている作者がいる。アルバムを繰るような佳き成長の記録である。
 タイトルになった菊坂の句では、とくに次の三句が気に入っている。

一葉の井戸の混みあふ濃紫陽花
菊坂をゆつくりのぼる月の客
菊坂に米を搗く音十三夜

 最初の句は、吟行などで人が寄っているのだろうか。一葉の時代の市井を彷彿させ、紫陽花の混み具合も重なってくる。月の客の句は、「ゆつくりのぼる」が月にも客にも掛かり、しっとりとした情趣と透明感がある。十三夜の句は余韻が残り、なぜかふと、源氏物語の夕顔の宿に聞こえて来た砧の音を思った。
 句集は平成十六年以降が未刊行なので、数冊の出版が今後に控えているのであろう。自在な境地に遊ぶ句集群が大いに楽しみである。