中城城跡は、三〇〇余のグスクの中で遺構が残されて、護佐丸(?─1458)の城跡として名高い。その墓は、一番古い亀甲墓と言われている。

中城城址

 城は連郭式になっており、六つの郭で構成される。琉球石灰岩の切石で積まれ、その芸術性は、ペリー提督も賞譛する所にも出ている。
 西に向けた正門は、最も広々としており、二の郭は一の郭と同じく布積みで、その蛇行が美しい。三の郭は布積みの進化したものであいかた積みと呼ばれている。正門の近くに南の郭があり、ここは霊域となっており、八つの拝所(いべ)があり、巡礼者がひっきりなしである。更に、東側には、鍛冶屋跡(かんじゃーあと)がある。武具を作ったと言われる。北の郭には、大井戸(うふがー)があり、西の郭には夫婦井戸(みーとぅがー)がある。
 裏門はペリー一行がエジプト式と評したアーチがきわだっている。
 北の郭と三の郭が1440年に護佐丸によって拡張されている。城作りの名人護佐丸は忠臣として知られ、山田城、座喜味城と城を建て、沖縄芝居、映画に引っ張りだこで、その威光は奄美大島まで及び、中城城築城に当っては、与論島から人夫が狩り出され、城近くに与論(よーん) 村を形成したとの事である。
 城内からは、中国製青磁器(十四〜十五世紀)明治の火矢(ひゃー)(金属弾)が発掘されている。
 風光明媚な城跡を散策してほしい。その面積は、約三三、四〇〇坪で、城郭は約四、三〇〇坪である。那覇空港より約一時間。
 安田谷城跡は、組踊の「執心鐘入れ」のモデルとなった中城若松のおさめた城で、今は公園となっている。その崖上に、その母親と妻が静かに眠り、若松は天領の上間総地頭となって、上間に眠っている。第二尚円王と安田谷祝女(のろ)との間に生れ、章氏を名のっている。その子孫は、名前に「正」の字がつく。上間は、世界遺産「識名園」の近くにある。 (報告 広瀬元)

当日句
八つの札所は四方遙拝冬桜元 
城址より四方を眺むる四温晴幸助
神さぶる城址の石段槖吾の花節子
時待ちて咲く山桜風起こす朝枝