鑑賞「現代の俳句」(113)                     蟇目良雨

 

勝鶏となる一蹴を天に出て 柴田佐知子[空
「空」2017年8月号
 闘鶏の一こま。向き合ってから高く跳んで蹴りあう。掲句は勝鶏が蹴爪を宙に向けて一蹴りして勝負を決めた瞬間を描いたのだが、スローモーション映像を見ているようで記憶に残る。

枇杷熟るる夕日に幸を祝ぐ様に 安立公彦[春燈]
「春燈」2017年8月号
 枇杷の木は都会においても親しい存在だ。歩道の植栽に近くの住民が育てたりしている。普段は目立たないが梅雨どきを過ぎると俄然存在感を出す。ことに夕方になると日を浴びて緑一色の町の景色に明るい彩りを与えてくれる。枇杷のともしび色はささやかな幸そのものである。

橋立の松を搔き消し黄砂くる 原田しづえ[万象]
「万象」2017年8月号
 黄砂は年々ひどくなっているようである。それだけ中国大陸の内陸部の砂漠化が進んでいるのだろう。砂漠化の防止のために日本の研究者が貢献しているニュースがあったが、資本主義に浮かれている中国ではこうした地味な活動は無視されがちである。日本三景の一つの天橋立を搔き消すほどの黄砂のすさまじさに作者は唖然としたと思う。

ささら波寄する残んの杜若 星野恒彦[貂]
「貂」2017年8月号
 もう終わろうとしている杜若のさびしい姿に池面からささら波の照り返しが励ましているという図か。消えゆく物への哀隣がみえるやさしさに溢れる一句。 「残ん(のこん)」の措辞が生きている。

多佳子忌の空は生絹を張りにけり石澤青珠[繪硝子]
「繪硝子」2017年8月号
 汀女・立子・鷹女と共に橋本多佳子は四Tと称され女流俳人の山脈をなした。東京の本郷の生まれながら大阪、小倉、奈良で生涯を送る。美しいベールの下に隠された激情が多佳子俳句の特徴とすると多佳子忌(5月29日)の梅雨を控えた曇り空は生絹(すずし)を張ったようだと言う喩に納得させられる。

くらがりにぬうとよぎれる梅雨鯰 嶋田麻紀[麻]
「麻」2017年7月号
 田んぼみちの暗がりを歩いていると、足元を横切るものがある。よく見るとそれは鯰であったというのが句意。梅雨どきの田んぼは水が溢れるくらいになると用水と田んぼの間を様々な魚が往き来する。鰻なども往き来するのを見かける。それだけ梅雨時は生き物の盛んな時。ここには豊かな自然がまだ残っている。

白道へ雅楽いざなふ新樹光 合谷美智子[桜]
「桜」2017年重陽号
 九品仏の前書きのある句。この寺では3年に一度「二十五菩薩来迎会」という、本堂と上品堂の間に渡された橋を菩薩の面をかぶった僧侶らが渡り菩薩の来迎の様子を表す行事が行われる。橋は人の背よりも高く白布で覆われて白道を意味するが、お面をかぶっているのでしずしずと進む。新樹光がお面の金色を眩しく照り返す。雅楽の演奏がさらに華を添えてくれる。

内側は悲しみばかり夜の桃 今瀬剛一[対岸]
「対岸」2017年9月号
 この句を見て盤水先生の葬儀を思い出した。祭壇に豊満な桃が供えられていて、その豊満さが何故か悲しみを誘ったのだった。そして暑い暑い8月末の夜であった。
 掲句は夜の桃を前に、人には言えない悲しみが心の内に溢れていると言っている。桃から悲しみを感じる所が詩人であると思った。

夏怒濤引く潮を呑み立ちあがる 松尾隆信[松の花]
「松の花」2017年9月号
 がっちりとした即物具象の写生句。引き潮が沖まで遠ざかることを許さずに途中で呑み込んで大きな怒濤になって再び岸に押し寄せる様子を写生。巨大な生き物のように見せたところに迫力がある。夏の怒濤を飽きずに観察して得られた秀句。

なにするもいやじやうたてと半夏雨 関成美[多磨]
「多磨」2017年9月号
 半夏生は七十二候のひとつで梅雨明けを済ませたころのこと。半夏生草が生える時期にも当っている。この頃田植を行っても実りが少ないことから田植終いの日とされ、農家の人にとっては安息日にするところもある。半夏生とはそんな中途半端な時期かも知れない。この時期は一般の人にとっても梅雨明けの暑さがどっと押し寄せて来るころであり、体の自由が利かなくなるころでもある。何をするにも「厭じゃ」「転て(うたて)」と思うのは万人の考えること。まして雨の日は切実におもうことであろう。
 (「転て」は心になじまないこと。)

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