春耕俳句会は、有季定型の俳句と和楽の心で自然と人間の中に新しい美を探求します。第五感・第六感を働かせた俳句作りを心がけます。
連載記事 - 月刊俳句雑誌「春耕」掲載

韓の俳諧

韓の俳諧(26)2021年4月号

俳諧鴨東新誌を見ると、朝鮮蕉風は全国で3番目に人数が多い支部ということがわかる。朝鮮蕉風連合は、兼題で優劣を競う俳句相撲や、一般の投句で活躍している。

韓の俳諧(25)2021年3月号

韓半島の俳句研究の先駆者である阿部誠文氏が、『ホトトギス』明治32年(1899)9月号の地方俳句界末尾の記事から、半島で最も早い俳句会は明治32年に仁川(インチョン)の旧派の榛々吟社、新派では仁川新声会であるとされた。仁川新声会は、ホトトギスに句会報をのせるほど興隆したが、短期間で衰退し京城の俳人と合わせて南風会という名称になった。

韓の俳諧(24)2021年2月号

台湾の台北と朝鮮の露光という一発屋が現れたあと、『俳諧鴨東新誌』148号(明治31年2月)に、息の長い朝鮮の蕉風連合が登場した。彼らは蕉風俳諧として句を詠んでいた。台湾勢も巻き返すなど海外勢の投句は無視できない。

韓の俳諧(23)2021年1月号

俳諧鴨東新誌に掲載された外国支部は138号の台北が最初だが、142号に朝鮮の露光という支部が現れた。これは、俳人露光が結佐の名前を自分の俳号にしたものと考えられる。露光が人数分の会費を払い連合表に掲載されるようにしたのだろう。141号には、外交人同士の俳句相撲も掲載されている。

韓の俳諧(22)2020年12月号

俳諧鴨東新誌明治30年1月号に、台湾からの投句があり、4月号には台北連合が記載された。同紙に載った最初の海外俳句結社だ。また、台湾からの投句を含む前句付の俳句相撲が載っている。韓半島勢は台湾に先を越されスイッチが入った。

韓の俳諧(21)2020年11月号

『韓城新報』の句会の記事。明治29年6月24日に、第壹會の正風集の募集をしたあと、7月16日に、三傑 三句、十哲 十句を掲載した。三傑が特撰、十哲が入賞ということになる。

韓の俳諧(20)2020年10月号

明治32年のインチョンの俳句結社より前に、明治29年にソウルに清風会という結社があった。韓城新報内にあり、郵便句会を開いていた。

韓の俳諧(19)2020年9月号

以前に続き、俳諧鴨東新誌に掲載の俳句相撲を見ていく。幕内は主宰の上田聴秋が裁いて、評も詳細である。朝鮮の春湖も、八田知紀の吉野の歌を彷彿とさせると軍配を得た。一方正岡子規は、聴秋と逆の立場で知紀の歌を和歌核心の標的とした。

韓の俳諧(18)2020年8月号

日清戦争を題材とする俳句は、さいたま市の指扇氷川神社に、「従軍賀章」という題の明治26年(1893)の俳額にある。『俳諧山吹叢誌』にも多数あるが、大部分が戦争を体験していない机上の俳句だ。しかし、大供太郎の陸軍少佐が父母庵雪山の配合で「國廼光」として投稿した句は、実戦を元としている。子規は日清戦争に従軍したが、すぐに終戦となりかえって病を悪化させて帰国した。そこで漱石の下宿に厄介になり、新聞に「俳諧大要」を連載した。

韓の俳諧(17)2020年7月号

韓の俳人が多数投句していた『俳諧鴨東新誌』は、市川一男によれば内容が貧弱で、懸賞俳句や聴秋の自己宣伝などを載せた粗末な冊子であるとされ、三森幹雄が『俳諧矯風雑誌』を創刊し、俳壇の体質を矯正しようとしたと論じている。京都の新興宗匠の上田聴秋と『俳諧鴨東新誌』を討ち果たすために、『俳諧矯風雑誌』という刺客を差し向けたような市川の論調だ。しかし、『俳諧矯風雑誌』は3年で廃刊となり、『俳諧鴨東新誌』は刺客をものともしなかった。

韓の俳諧(16)2020年6月号

俳諧の大衆化に伴い、句合せが闘句に変化していった。俳諧鴨東新誌にも番付を着けた闘句が掲載され、朝鮮半島の俳人も応募した。闘句は、優劣がつけがたいと行事預かりもあった。

韓の俳諧(15)2020年5月号

明治26年(1893)芭蕉二百回忌にあたり、東京深川に芭蕉神社が建立された。一方、京都の東福寺には芭蕉の句碑が建立され、韓の俳人も出資した。俳諧鴨東新誌』96号に建碑義捐の出資者が書かれていて、朝鮮元山 比田勝春湖、同 大塚蒲帆の名がある。春湖は、同誌に21句掲載されたことがある。

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