春耕俳句会は、有季定型の俳句と和楽の心で自然と人間の中に新しい美を探求します。第五感・第六感を働かせた俳句作りを心がけます。
連載記事 - 月刊俳句雑誌「春耕」掲載

韓の俳諧

韓の俳諧(65)2024年7月号

臼田亞浪は1928年5月6日と7日に、京城で俳句大会に臨みました。6日には来青閣で全鮮俳句大会が開かれました。兼題が「若葉」で、席題は「霞」でした。雨の中多くの人が各地から集まった。7日は石楠連合句会とラジオでの講話など、盛りだくさんでした。ラジオでの題は「俳句と民衆生活」でした。石楠連合句会はラジオ放送を終えた亞浪が駈家付け席題が「金魚」と「日傘」5句投句で行われた。

韓の俳諧(64)2024年6月号

臼田亞浪は「石楠」同人の案内で京城市内や京城日報や朝鮮総督府内を訪問した後勤政殿にて旅行吟として2句、併合で地位を追われた最後の王や家族が住んでいた昌徳宮秘苑においても2句詠まれた。日本は韓国から朱子学を学びました。豊臣秀吉軍に拉致された姜沆(カンハン)が、藤原惺窩(ふじわらせいか) を経て林羅山へ朱子学を伝え、昌平坂学問所が開設された。跡地が現在の跡地が湯島聖堂と東京医科歯科大学です。

韓の俳諧(63)2024年5月号

臼田亞浪は1928年5月4日朝に、連絡船で釜山へ上陸しました。同行したのは西村公鳳, と庄司鶴仙。12時に大邱そして夕方 7時40分に京城駅に着き京城日報の歓迎の出迎えを受けた。臼田亞浪は洛東江畔にて「カチ鴉」の句を詠んだ、韓国では鵲として親しまれている。

韓の俳諧(62)2024年4月号

臼田亞浪は1928年と1935年に、満鮮旅行として、中国東北部と韓半島への旅をした。京城には西村公鳳など三人の「石楠」同人がいたので、彼等が道案内や宿・句会の手配をした。当時は、特別急行東京と下関を1日がかりで結んでいた。さらに出帆は11時の関釜連絡船(当時は国内旅行)で、翌朝8時に釜山へ上陸した。

韓の俳諧(61)2024年3月号

『朝鮮公論』では7月号から小作文・短歌・長詩・俳句の上位三人に、賞金を贈呈する制度を始めた。大正15年7月号の臼田亞浪選俳壇では、三等 庄司鶴仙、二等 西村公鳳、一等 堤玆歛であった。庄司鶴仙は、石楠京城支部の創設者。西村公鳳は、その後鶴仙に代わり石楠京城支部の中心となったが、戦後金沢に引き上げ「風」に参加した。堤玆歛は石楠の人という以外はわからない。

韓の俳諧(60)2024年2月号

雑誌『石楠』1925年12月号 山火鈔(幹部同人雑詠)には福永巨明が、秋光鈔(会員雑詠)には横山柯子、大橋華垣らの句が掲載された。また石楠京城支社の句会報も掲載された。中に、京城で俳句を始め『石楠』に入った今西舟芳がいる。舟芳は光州へ移住後河鹿吟社に加入し、木浦に移り『カリタゴ』の会員となった。辺境の俳人は流派を選ぶといった贅沢ができず、近くの結社に属した。

韓の俳諧(59)2024年1月号

臼田亞浪は朝鮮公論の俳壇の選者を1925年7月号から務めるが、亞浪が2か月出雲に旅に出たため、その次は10月号に亞浪選が掲載された。また、石楠の京城支部も出来、句会の互選句も同号に掲載された。韓国内の学校を卒業した俳人も出て来た時代であった。

韓の俳諧(58)2023年12月号

『石楠』の臼田亞浪が『朝鮮公論』の俳壇の選者を、1925年7月号から担当したが、当時の『石楠』の雑詠欄に韓半島から、筒井樹九路と相澤草水の2名が投句していた。また京城に移住した庄司鶴仙が、京城に『石楠』の支部を作ることになった。

韓の俳諧(57)2023年11月号

雑誌『朝鮮公論』の俳壇は、青木静軒が選者をしていた時には安定していたが、その後は選者が頻繁に代わったり、休載となったりした。1925年7月号から、突然に臼田亞浪選となった。これにより、韓半島に『石楠』の俳人が増え、支部もできた。韓国の俳壇史においても、『石楠』の歴史においてもこれは無視すべきではない。

韓の俳諧(56)2023年10月号

草城が雑誌『朝鮮及満洲』の次に熱心に投稿したのが、福岡で創刊された『天の川』で、2号(8月号)に草城の句、4号(10月号)に父静山の句と併せて掲載されている。また、ホトトギスの1918年10月号「地方俳句界」にも、この父子らの句が載っている。

韓の俳諧(55)2023年9月号

京城中学校5年生の夏休みから日野草城は、俳句を始めた。父の静山や新田如水といった鉄道局の俳句グループ、くれなゐ会に草城も加わった。 くれなゐ会の句稿は、前田普羅へ送られ選評を受けていた。草城は、楠目橙黄子が指導する句会にも出ていたが、橙黄子が俳号を父の静山にちなみ、太古はどうかと言ったが、自分で草城と号した。

韓の俳諧(54)2023年8月号

1917年の夏休みに、草城は父の任地である淸津(チョンジン)へ帰省し、父の職場鉄道局の、木の芽会という句会に加わって、俳句を始めた。木の芽会はホトトギスの久世車春の指導を受けていた。木の芽会には、新田如水(職場の所長かつ俳句のリーダー)、久世車春は鉄道局の指定商人であった。

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