春耕俳句会は、有季定型の俳句と和楽の心で自然と人間の中に新しい美を探求します。第五感・第六感を働かせた俳句作りを心がけます。
連載記事 - 月刊俳句雑誌「春耕」掲載

韓の俳諧

韓の俳諧(71)2025年1月号

1935年10月20日午後、「石楠」の「臼田亞浪師歓迎俳句大会」が開かれ出席者は100人を越えた。席題は秋一般でした。21日は夜汽車に乗るまで、休養日だったが、亞浪は「石楠」の主な人々の家を訪問した。10月22日朝6時に大邱から乗り継ぎ 9時38分に慶州へ着いた。

韓の俳諧(70)2024年12月号

臼田亞浪は一ヶ月近い満洲の旅を終えて、1935年10月18日午後2時に、奉天(今の瀋陽)から、安奉線の列車に乗り案内役の西村公鳳が乗り込み、京城へ19日に着いた。20日には、博文寺と徳壽宮に行った。

韓の俳諧(69)2024年11月号

臼田亞浪と石原沙人は1935年9月19日の朝を、今の北朝鮮東北部の朱乙(チュウル)温泉で迎えました。この日は羅津(ナ ジン)へと北上し3年前から築港工事をしていた知り合いに案内してもらった。ケーソン工場が亞浪の印象に残った。19日の夜と20日の朝は、作句や「石楠」への通信文の執筆に充てた。そして雄基発の列車で北西の国境へ向かい旧満洲国の圖們駅で盛大な出迎えを受けた。

韓の俳諧(68)2024年10月号

臼田亞浪は1935年9月18日に北朝鮮東北部の淸津で沙人と合流し淸津を案内してもらった。淸津神社を参拝して國津神として詠む。鉄道局で講演し朱乙温泉にて宿泊した。

韓の俳諧(67)2024年9月号

臼田亞浪は1935年9月から10月に、2回目の満洲(中国東北部)朝鮮旅行をしました。「石楠」20周年と「長栍」創刊という他に、石原沙人(秋朗1898~1979)の働きかけがあり満州へ渡った。沙人は中国語に堪能で鉄道に精通しているので、最良の案内人でした。9月15日に東京を出発し満洲で一ヶ月近くを過ごし、韓半島は通過した程度でした。

韓の俳諧(66)2024年8月号

臼田亞浪は1928年5月8日から 京城の北へ向かい各地で句会を開いた。 5月11日には中国にも入り5月20日に京城に戻った。5月28日に父の文次郎が危篤と言う知らせを受けたが5月23日から26日には海金剛の観光をしたことは 亞浪の記録によってわかる。6月4日の父の臨終には間に合わなかった。

韓の俳諧(65)2024年7月号

臼田亞浪は1928年5月6日と7日に、京城で俳句大会に臨みました。6日には来青閣で全鮮俳句大会が開かれました。兼題が「若葉」で、席題は「霞」でした。雨の中多くの人が各地から集まった。7日は石楠連合句会とラジオでの講話など、盛りだくさんでした。ラジオでの題は「俳句と民衆生活」でした。石楠連合句会はラジオ放送を終えた亞浪が駈家付け席題が「金魚」と「日傘」5句投句で行われた。

韓の俳諧(64)2024年6月号

臼田亞浪は「石楠」同人の案内で京城市内や京城日報や朝鮮総督府内を訪問した後勤政殿にて旅行吟として2句、併合で地位を追われた最後の王や家族が住んでいた昌徳宮秘苑においても2句詠まれた。日本は韓国から朱子学を学びました。豊臣秀吉軍に拉致された姜沆(カンハン)が、藤原惺窩(ふじわらせいか) を経て林羅山へ朱子学を伝え、昌平坂学問所が開設された。跡地が現在の跡地が湯島聖堂と東京医科歯科大学です。

韓の俳諧(63)2024年5月号

臼田亞浪は1928年5月4日朝に、連絡船で釜山へ上陸しました。同行したのは西村公鳳, と庄司鶴仙。12時に大邱そして夕方 7時40分に京城駅に着き京城日報の歓迎の出迎えを受けた。臼田亞浪は洛東江畔にて「カチ鴉」の句を詠んだ、韓国では鵲として親しまれている。

韓の俳諧(62)2024年4月号

臼田亞浪は1928年と1935年に、満鮮旅行として、中国東北部と韓半島への旅をした。京城には西村公鳳など三人の「石楠」同人がいたので、彼等が道案内や宿・句会の手配をした。当時は、特別急行東京と下関を1日がかりで結んでいた。さらに出帆は11時の関釜連絡船(当時は国内旅行)で、翌朝8時に釜山へ上陸した。

韓の俳諧(61)2024年3月号

『朝鮮公論』では7月号から小作文・短歌・長詩・俳句の上位三人に、賞金を贈呈する制度を始めた。大正15年7月号の臼田亞浪選俳壇では、三等 庄司鶴仙、二等 西村公鳳、一等 堤玆歛であった。庄司鶴仙は、石楠京城支部の創設者。西村公鳳は、その後鶴仙に代わり石楠京城支部の中心となったが、戦後金沢に引き上げ「風」に参加した。堤玆歛は石楠の人という以外はわからない。

韓の俳諧(60)2024年2月号

雑誌『石楠』1925年12月号 山火鈔(幹部同人雑詠)には福永巨明が、秋光鈔(会員雑詠)には横山柯子、大橋華垣らの句が掲載された。また石楠京城支社の句会報も掲載された。中に、京城で俳句を始め『石楠』に入った今西舟芳がいる。舟芳は光州へ移住後河鹿吟社に加入し、木浦に移り『カリタゴ』の会員となった。辺境の俳人は流派を選ぶといった贅沢ができず、近くの結社に属した。

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