春耕俳句会は、有季定型の俳句と和楽の心で自然と人間の中に新しい美を探求します。第五感・第六感を働かせた俳句作りを心がけます。
連載記事 - 月刊俳句雑誌「春耕」掲載

曾良を尋ねて

曾良を尋ねて(140) 2021年4月号

神道家でもありまた真言宗の教えを受けた曾良にとって二度目の終焉の地を榛名に選んだのは風水の方位学によるものであったと思われる。幕閣との繋がりがある御師とも交流しており神仏を拝み、神道を極めんと修験者としての生き方を選んでいたのではないか。

曾良を尋ねて(139) 2021年3月号

吉川惟足の門下生の頃より曾良と見識のあった並河誠所と関祖衡が榛名山中で出会った白髪の老翁こそ、幕府の御用を勤め上げ榛名山中に隠棲していた曾良に間違いないであろう。

曾良を尋ねて(138) 2021年2月号

曾良の終焉の謎である「本土生存説」に対しての根拠とされるのは徳川中期の儒者並河誠所の「伊香保道記」の中に書かれている白髪の老翁がまさしく曾良に間違いないと強く推測される所以である。

曾良を尋ねて(137) 2021年 1月号

正字こと曾良の対馬での死亡説には様々な意見がある。その理由として「神宿る島」対馬は神職を業としている正字にとっては信仰の特別な場所であり、このことは国防と貿易を案ずる幕府と神職の望みを果たそうとする正字の思惑が合致して巡見使として参加することになった十分な理由の一つとして考えられる。死亡届けを出してまでも対馬の信仰深さに島中の神社を巡っていたと考えられる。その後幕府のため江戸に戻ったのではないかと想像される。

曾良を尋ねて(136) 2020年12月号

岩波庄右衛門の終焉にはいろいろな説があるが、用人の死という大きな事件にもかかわらず何の混乱もなく巡見使の一行は壱岐島を離れた。このことは推測の域に過ぎないが正字は対馬藩への幕府の命を受けており、仮病を使い中藤家に入り公儀が用意した別の通行手形でひそかに持参した六十六部の衣装で単独にて対馬藩を探っていたのではないかという説。そして計画が秘かに実行された時点で巡見使一行は用人の死を報告した。そのころには正字は任務を無事終えて江戸へと向かっていたのである。これは「本土生存説」などによる推測によるものである。

曾良を尋ねて(135) 2020年11月号

曾良の終焉に関しては壱岐死亡説で関係文献等も統一されている。しかし壱岐で死亡したという知らせは案内人であった対馬藩の役人三浦貞右衛門にはまったく知らされていなかったのである。このことは幕府の対馬藩へ知られてはまずいことがあったのであろう何かが意図的に働いたと思われる。また謎は対馬にも曾良の墓があったという江戸時代の記録が出てきて「本土生存説」などとともに益々謎が深まる。

曾良を尋ねて(134) 2020年10月号

曾良の突然の死については疑問が多い。そのことは津島藩士三浦貞右衛門の5月22日の詳しい日記からも御用人岩波庄右衛門が病気になった様子などは一切記述がないのが其の所以である。 したがって曾良の死亡日が5月22日であるはずがないと考える。不思議なことには5月22日以降の三浦氏の日記からは岩波庄右衛門という名前は一切書かれていない。

曾良を尋ねて(133) 2020年9月号

今回の巡見使としての対馬藩藩への任務は曾良の長年にわたる東北や関西の公儀の任務の実績から判断されたのであろうか。引退していたにもかかわらず土地勘のない筑紫方面への任命は特別な意図があったのであろうか。この度の対馬藩探索には曾良が長年使用した六十六部の衣装は持参することを禁止された。その姿によって諜報活動が容易だったのであるが曾良の性格上十分に調べていたとは思われるが、今回の御用人の姿のままの諜報活動には困難が予想される。

曾良を尋ねて(132) 2020年8月号

対馬藩の巡見は曾良である岩波庄右衛門が詮議することとなったが対馬藩の対応は実に不誠実であった。しかし岩波庄右衛門は対馬藩が朝鮮貿易で莫大な利益を上げていることを見抜いていた。

曾良を尋ねて(131) 2020年7月号

将軍交代による新しい方策が実行されているか否かの今回の巡見使の一行は3月1日に江戸を出立し筑前の国門司に到着したのは4月2日であった。すでに60を越えていた岩波庄左衛門正字にとっては厳しい旅となった。福岡藩での調査は順調に進んだが、対馬藩においては長年常態化していた密貿易に対する詮議役として岩波御用人があたることとなった。

曾良を尋ねて(130) 2020年6月号

曾良がなぜ岩波庄左衛門正字として巡検使となりえたかは六代将軍家宣が出した「大赦令」によって松平忠輝の遺子であるとされる身分が復活され、このような公儀の官職に登用されたと考えられる。「大赦令」以前は本人には何の罪もないが先祖、藩主が罪人の汚名を着せられたなら生涯日陰の身分のままで過ごさねばならなかった。正に曾良や赤穂浪士の遺子たちがそうであったように。

曾良を尋ねて(129) 2020年5月号

六代将軍家宣の時代になり曾良は本名の岩波庄右衛門正字で神職者として各地を回っていた可能性がある。そして地誌に明るく卓越した事務能力をもつ逸材として幕府の巡見使の御用人として九州地方へ赴いていたのである。

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