春耕俳句会は、有季定型の俳句と和楽の心で自然と人間の中に新しい美を探求します。第五感・第六感を働かせた俳句作りを心がけます。
連載記事 - 月刊俳句雑誌「春耕」掲載

曾良を尋ねて

曾良を尋ねて(111) 2018年11月号

江戸を出発してから帰着まで222日曾良はその半分以上を芭蕉と過ごしその詳細、毎日の歩いた距離、天候、番所の様子、出会った人々などせいかくに記述している。この曾良旅日記はおくの細道の第一級資料である。みちのくへの旅は終わったが、また新たな任務の始まりでもあった。

曾良を尋ねて(110) 2018年10月号

曾良は伊勢神宮の参拝を終えた芭蕉一行とは別行動をとり熱田神宮の修復に貢献した長岡為麿や荷兮や大垣で別れた越人らを訪ねたと言われている。そして一か月ぶりに芭蕉と再会を喜ぶ。

曾良を尋ねて(109) 2018年9月号

9月10日の伊勢内宮遷宮式の初日に芭蕉が参拝しなかった理由は伊勢の神は僧侶や尼など頭髪のないものを忌むので芭蕉は髪がなかったため神前に詣でる事ができない旨すでに体験して知っていたため、13日になって(僧尼拝所)から参拝し、夜中に付け髪をしていったと思われる。

曾良を尋ねて(108) 2018年8月号

【ー芭蕉・大智院へ行く―】「奥の細道」を終えた芭蕉は大垣から舟で曾良、路通と伊勢に向かった。曾良は芭蕉をまず伊勢長島の大智院に招き長島藩の七左,由軒、八郎左など藩の重役などに芭蕉を紹介し連日のように俳席を設けた。

曾良を尋ねて(107) 2018年7月号

芭蕉と曾良の奥の細道の旅は太平洋側を水戸藩が見守り象潟よりは大垣藩が後ろ盾になって見守っていたと考えられる。芭蕉の出身の津藩は軍事力強化に力を注いでいて幕府にも信頼が厚かった。このことも各地を隠密に情報収集出来た所以であるといえるであろう。

曾良を尋ねて(106) 2018年6月号

曾良は別行動をとり芭蕉の『細道』の先々で周辺の集落の暮らしぶりを調査していたと思われる。 そして芭蕉の『細道』にかかる費用も工面していた。

曾良を尋ねて(105) 2018年5月号

芭蕉と別れた曾良は1日約45キロを踏破。芭蕉が後日訪れるであろう宿場16か所を3日間で踏破した。とても 病んでいるとは思えない脚力であった。

曾良を尋ねて(104) 2018年4月号

八日間の山中温泉での長逗留の間も北枝は芭蕉の俳諧の核心である、不易と流行、さび、しおり、ほとみ等の教えを乞い「山中問答」に記録していた。一方曾良は北枝のおかげで一人で別行動をとる事が出来たと考えられる。

曾良を尋ねて(103) 2018年3月号

曾良は7月17日より体調を崩すも金沢を発つ頃は回復し26日には夜まで連句の会に参加した。その後山中温泉に8泊。芭蕉はこの旅において杉風以外ただ一通のみ大垣チームに旅の経過報告の書簡を出している。

曾良を尋ねて(102) 2018年2月号

松平忠輝の遺児としての曾良の存在は幕府にとっては煙たいものであったであろう。それ故曾良の存在を示す資料が少ない。しかし芭蕉と関わった「奥の細道」での活躍で十分に才能を窺うことができる。

曾良を尋ねて(101) 2018年1月号

大久保長安は生涯において徳川政権に絶大な功績があったにも拘らず、その莫大な蓄財や伊達政宗、松平忠輝など多岐にわたる人脈を家康に恐れられ陰謀によって蓄財はすべて没収され遺児7名は全員処刑された。

曾良を尋ねて(100) 2017年12月号

芭蕉の「荒海や」の句は佐渡島への畏敬の念によって創造されたイマジネーションの句ではなかったか。 大久保長安は大陸から渡って来た秦氏の末裔で武田信玄、徳川家康に仕え鉱山の開発に力を発揮した。

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