はいかい漫遊漫歩
はいかい漫遊漫歩(216)(217)2023年10月号
2023年10月1日 はいかい漫遊漫歩
鯛焼は2枚の型を合わせて型そのものをひっくり返して焼く。型できっちりおさえるから、皮のごく薄い部分ができる。そこにまで餡がはいっていたほうがいいのか、そこは口直しに甘くないパリッとしたものとして食べる方がいいのか、江戸趣味の通人のあいだで論争が起きた。
はいかい漫遊漫歩(214)(215)2023年9月号
2023年9月1日 はいかい漫遊漫歩
『いたずらラッコのロッコ』『くまの子ウーフ』『銀のほのおの国』などの作品で知られる児童文学作家の神沢利子さんが、99歳の誕生日の2023年1月29日に“俳句による自伝 ”とも言える白寿句集『冬銀河』(絵本屋こども富貴堂刊)を出版した。
はいかい漫遊漫歩(212)(213)2023年8月号
2023年8月1日 はいかい漫遊漫歩
〈 三月の甘納豆のうふふふふ 〉〈 たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ 〉を自作俳句の代表句と称する “ねんてん ”、坪内稔典さんが代表の俳句グループ「船団の会」が、平成30年9月1日発行の機関誌「船団」(第118号)で組んだ特集が話題を呼んだ。
はいかい漫遊漫歩(210)(211)2023年7月号
2023年7月1日 はいかい漫遊漫歩
〈山に金太郎野に金次郎予は昼寝 〉が三橋の辞世句と定まる興味深いエピソードを紹介する。俳人で俳句評論家、宗田安正の著作『最後の一句―晩年の句より読み解く作家論』(本阿弥書店刊)から引く。 〈 癌死の13日前の平成13年11月18日、小田原市で、自身も加わる同人誌「面」の早めの忘年句会が催された。三橋は掲句(註:山に金太郎野に金次郎予は昼寝 〉をしたためた賞の色紙四枚を持参、参加した。身体の状況から、これが連衆との最後の別れになることを承知していたに違いない。当日は、先師西東三鬼主宰「断崖」以来の懐かしい仲間、山本紫黄、大高弘達や高橋龍なども出席していた。三橋は、選も講評も、すべて普段と変わらずに果たして、帰って行ったという。〉
はいかい漫遊漫歩(208)(209)2023年6月号
2023年6月1日 はいかい漫遊漫歩
1931年に40代になった久女の俳句は女流俳句の頂点に駈け上がる。31年、〈 谺して〉の句が「東京日々新聞」(現毎日新聞)、「大阪毎日新聞」(同)共催の「新名所俳句」で帝国風景院賞金賞20句に入選、受賞。水原秋櫻子の〈 啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 〉後藤夜半の〈 瀧の上に水現れて落ちにけり 〉などの傑作句に伍しての栄冠だった。
はいかい漫遊漫歩(206)(207)2023年5月号
2023年5月1日 はいかい漫遊漫歩
雷門通りと馬道の交差点角に神谷バーのビルが目に入る。浅草1丁目1番地1号は、明治13年の創業以来不動で店を守り続けてきた誇りの地番だ。バーと言っても1階はビヤホール、2階がレストラン、3階は割烹。神谷バーと言えば、デンキブラン(電気ブラン)。どの階でも飲める。
はいかい漫遊漫歩(202)(203)2023年3月号
2023年3月1日 はいかい漫遊漫歩
作家の尾崎一雄は、早大国文科3年のとき、2年後輩の丹羽文雄と戸山ヶ原を散歩中、〈 丹羽が小川に向かって立小便をすると、折柄の春風で、それがなびいた。そこで一句できた、と丹羽が口ずさんだのがこの句…〉(「風報」昭和35年5月号)と〈 春風やおれのしょんべん曲りけり〉を披露。ともに文化勲章作家となった丹羽の〈一世一代、唯一の俳句〉と言う。
はいかい漫遊漫歩(200)(201)2023年2月号
2023年2月1日 はいかい漫遊漫歩
1966年、ビートルズが来日した際、滞日中の行動に密着取材して作成した写真集『ビートルズ東京 100時間のロマン』で写真家としてメジャーデビューしたマルチタレント、浅井慎平は、『二十世紀最終汽笛』『夜の雲』などの句集を持ち、2015年には応募句〈 青き川祖国に流れ足の裏 〉で第22回西東三鬼賞(岡山県津山市主催)受賞、俳句コンテストの選者も務める俳人でもある。 平安時代(8世紀末―12世紀末)後期から鎌倉時代(12世紀末―14世紀)の100年の時間をかけて、幾人かの手で出来上がった短編物語集『堤中納言物語』
はいかい漫遊漫歩(198)(199)2023年1月号
2023年1月1日 はいかい漫遊漫歩
代表作に『冥途』『百鬼園随筆』『阿房列車』などがあり、飛び切りの “乗り鉄 ”でもあった作家、随筆家が没して40余年。三島由紀夫に〈 もし現代、文章というものが生きているとしたら、ほんの数人の作家にそれを見るだけだが、隋一の文章家ということになれば、内田百閒氏を挙げなければならない。百閒文学は、人に涙を流させず、猥褻感を起させず、しかも人生の最奥の真実を暗示し、一方、鬼気の表現に卓越している。〉(『日本の文学34』解説 中央公論社)と評された内田百閒。
はいかい漫遊漫歩(196)(197)2022年12月号
2022年12月1日 はいかい漫遊漫歩
2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災による福島第一原子力発電所の炉心溶融事故発生以来、自称“売れない写真家”は、文字通り席の温まる暇もない東奔西走の日々が続くことになった。この10年間で国内外からの要請で原発の放射線被曝の悲惨な実態を約200回に渡って講演してきた。
はいかい漫遊漫歩(194)(195)2022年11月号
2022年11月1日 はいかい漫遊漫歩
若い時分、籾山梓月に「冷奴つめたき人へお酌かな」あるを拾い出し傾倒、しばらくは冷奴の亡霊に悩まされてかヤッコの句は吐けずだった。いまだに、いずれの歳時記にも梓月1句は採られていない。…遊び心の何たるかを弁えぬ没風流をこそ指弾すべきであろう。
はいかい漫遊漫歩(192)(193)2022年10月号
2022年10月1日 はいかい漫遊漫歩
吉屋信子が昭和48年(1973)に77歳で没して半世紀が過ぎた。大正5年(1916)に雑誌『少女画報』に連載した「花物語」で人気を集め、3年後の同8年、大阪朝日新聞の懸賞小説に当選した「地の果まで」で文壇デビューを果たす。 俳句とは、昭和17年(1942)に文学報国会の女流文学者会で俳人の星野立子、中村汀女と知り合ったのと2年後の昭和19年に鎌倉の大仏裏に疎開したことから、やはり東京から鎌倉に疎開していた高浜虚子を訪ね、教えを乞うたのが始まり。