春耕俳句会は、有季定型の俳句と和楽の心で自然と人間の中に新しい美を探求します。第五感・第六感を働かせた俳句作りを心がけます。
連載記事 - 月刊俳句雑誌「春耕」掲載

はいかい漫遊漫歩

はいかい漫遊漫歩(116)(117)2019年8月号

 荻原井泉水の主宰俳誌『層雲』に拠り、自由律俳人として名を残した種田山頭火と尾崎放哉。師をともにする2人が生前直接会うことはなかった。山頭火は、太平洋戦争へと繋がる国内の不穏の情況を行乞の眼で詠んだ句が一代句集『草木塔』に遺されている。同句集の搭載句数は701句。大正14年から死の1年前まで15年間に詠んだ約9千句から自選した中に「銃後」のタイトルで戦争句25句が収められている。  薩摩藩の琉球侵攻、明治政府の琉球処分の流れは、大戦末期に沖縄を悲惨な地上戦の戦場にし、いまなお日本の米軍基地の74%を押し付けている現実。俳句の世界にも沖縄差別があっていいのかと目を向けたら、沖縄の俳人たちが1979年の小熊一人編『沖縄俳句歳時記』(琉球新報社刊)を皮切りに沖縄俳句研究会編・発行『沖縄俳句歳時記』、瀬底月城・沖縄県俳句協会編『沖縄・奄美・南島俳句歳時記』の復刻版が出て、2017年5月には沖縄県現代俳句協会編『沖縄歳時記』(文学の森刊)が刊行されたことを知った。

はいかい漫遊漫(114)(115)2019年7月号

平成時代が31年をもって幕を閉じた。この時代を回顧する本が次々に登場することだろう。その先陣を切り、予め定められた時代の区切りにタイミングを合わせて刊行されたのが、『俳句の水脈を求めて―平成に逝った俳人たち』(角谷昌子著 角川書店刊)。 〈 昭和を生き、平成に逝った26俳人の作品と境涯。彼らはどのように俳句と向き合い、何を俳句に託したか。そのひたむきで多様な生と、魂の表現としての俳句の水脈を探る。〉と帯文が謳う同書に登場の女性俳人は、飯島晴子、野沢節子、桂信子、中村苑子、細見綾子、津田清子、鈴木真砂女の7名。 俳句を始めたのは22歳で、松瀬青々の「倦鳥」に初入選し、同年投句の〈 来てみればほゝけちらして猫柳 〉が巻頭を取る。角谷の記述を引く。 〈 綾子は当時を振り返って、松瀬青々は「生きる魅力と涙」をよく知っている人物であり、師の「俳句の甘美」がなかったら、自分は俳句を作っていなかったと断言する。すべてのものが「空虚」かつ「蕭条」としてぽっかり虚無の口を開けている。そんななか、青々俳句の優しさは命を吹き込む泉の水だった。〉

はいかい漫遊漫歩(112)(113)2019年6月号

昭和21年、雑誌『世界』11月号に掲載された桑原武夫の論文『第二芸術 ―現代俳句について―』が巻き起こした第二芸術論争に泰然として「俳句も第二芸術になりましたか」と言い放った虚子。 阿波野青畝、山口誓子、高野素十と並び、虚子門の「ホトトギスの四S」と呼ばれながら、「自然の真と文芸上の真」の絶縁論文を発表、離脱した水原秋櫻子の作品に対する虚子の評価。 日野草城は、29歳で「ホトトギス」の同人になったが、その5年後、新婚初夜をモチーフにしたエロティシズム溢れる連作「ミヤコホテル」十句を『俳句研究』に発表、俳壇のスキャンダル事件となる

はいかい漫遊漫歩(110)(111)2019年5月号

虚子曰「例句の伴はない新季語は未だ季語として認めるわけにはいかぬ。いゝ句の出来てゐる新季語はどしどし採用すべきである。歳時記は常に多少とも異変しつゝある。」

はいかい漫遊漫歩(108)(109)2019年4月号

高浜虚子没後60年を翌年に控えた平成30年夏、戦後俳句を晩年の虚子がどう理解、批評していたかを伝える “肉声の記録 ”を復刻、発言の場に同席していた弟子たちの証言と合わせた貴重な一冊『虚子は戦後俳句をどう読んだか―埋もれていた「玉藻」研究座談会―』(筑紫磐井編著 深夜叢書社刊)が刊行された。 虚子は俳句の評価を花鳥諷詠や客観写生で行っていない。俳句らしい思想と措辞をもっているかで決定する。

はいかい漫遊漫歩(106)(107)2019年3月号

歌舞伎町のど真ん中。薄暗い路地の奥に「砂の城」というアートサロンがある。体重を乗せるたびに悲鳴をあげる古びた階段を三階まで上がると、八畳ほどのスペースがある。ここで僕らは新宿歌舞伎町俳句一家「屍派」を名乗り、句会を行っている。  集まる面々は、ニート、女装家、元ホスト、バーテンダー、ミュージシャン、医者、彫刻家など、市井の句会ではまず見かけない者たちばかりだ。

はいかい漫遊漫歩(104)(105)2019年2月号

杏太郎は「老人とは人間の生きざまの果てに、かがやいているもの」だという。思うにこの三人称には、作者自身も投影されている。

はいかい漫遊漫歩(102)(103)2019年1月号

飄々と平易な言葉で紡ぎ、優しい詩心の伝わる俳句1767句を収録した『今井杏太郎全句集』が、没後6年の平成最後の秋に角川書店から上梓された。杏太郎が、昭和57年度の鶴賞を受賞した時、亡師石塚友二は次のように言っている。「この人の作風は、真正面に坐った上で、真正面に話しかけたりするのは阿呆くさい、さう思ってゐるやうなところがある。兎も角も鶴では風変わりな作者なのである。何処まで行けるものか、行き着くところまで、渾身の勇を奮って試して見られるがよい。杏太郎さんの句には突き抜けた人生観が漂い、総じて人生を肯定的に捉えるあたたかさが溢れている。すでに第1句集『麦稈帽子』に登場する、いわゆる「としより」の句だが、初見のころ、この老人は単なる被写体と私は考えていた。だが今、読み直すと、この老人は作者その人に違いないと思えてくる。

はいかい漫遊漫歩(100)(101)2018年12月号

戦争が終って何年も経ってのことだが、パリでぼくはあるきっかけから、フジタの信頼を受けるようになった。身近に接してみると、この巨匠はおそろしくお人好しだ。それは信じられないくらいで、蔭で夫人がだんだん人嫌いになるのも分かる。あんなにも利用されたり、傷つけられ、金銭を騙し取られるのを見ていると、ぼくでさえ、いらだつ。 日本国籍を返上、フランス国籍を取ったレオナール・フジタは、「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」とよく語っていたという。 〈 私は、世界に日本人として生きたいと願ふ、それはまた、世界人として日本に生きることにもなるだらうと思ふ。〉(藤田嗣治『随筆集、地を泳ぐ』より)

はいかい漫遊漫歩(98)(99)2018年11月号

雨模様の平成30年9月1日、上野の東京都美術館に出かけ、「没後50年 藤田嗣治展」を見た。主催者が「史上最大級の大回顧展」と銘打つに相応しい120点に及ぶ名作、力作を揃えた見応えある回顧展だった。コラム子を上野に駆り立てたのは、エコール・ド・パリの寵児のひとりであった画家の半世紀を越える優れた画業を辿るだけではなく、出品されている二点の100号、200号の戦争記録画の大作「アッツ島玉砕」「サイパン島同胞臣節を全うす」をこの眼で実見することだった。 二つの大作は、どちらも茶褐色の暗い色調の画面いっぱいに前者は日本兵、後者は一般人の男や女、子供、嬰児が犇めき命を絶つ壮絶な地獄絵図だった。その前に立った来場者の誰もが息を止め、後ずさりする凄惨な画面。この一角だけ前に立った人の多くが急ぎ離れて行った。

はいかい漫遊漫歩(96)(97)2018年10月号

本コラムの39話(平成28年5月号)と70話・71話(同29年9月号)で紹介した “ランドセル俳人 ”小林凜君も高校生になり、俳句・エッセイ集『ランドセル俳人からの「卒業」』(ブックマン社刊)を平成30年4月、上梓した。 凜君が3年生のとき、祖母の郁子さんが、当時の校長に不登校になった孫の様子を伝えたくて俳句を見せた。〈 校長から思いがけない言葉が返ってきた。「俳句だけじゃぁ食べていけませんで」そういって、笑ったという。祖母は帰ってきて、「8歳や9歳で将来の仕事がきめられますか」と母に怒りをぶつけた。〉

はいかい漫遊漫歩(94)(95)2018年9月号

関東大震災から95年を数える。この震災に出合い、世相の混乱ぶりを記憶にとどめている人々は、すでに世を去った。 関東大震災をリアルタイムで体験した詩人金子光晴は、『絶望の精神史』で〈 この災害によって、何かが大きくこわれた。その何かをはっきりさせることが、重大なことなのだ。〉と朝鮮人虐殺の実相に触れて書く。

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