春耕俳句会は、有季定型の俳句と和楽の心で自然と人間の中に新しい美を探求します。第五感・第六感を働かせた俳句作りを心がけます。
連載記事 - 月刊俳句雑誌「春耕」掲載

はいかい漫遊漫歩

はいかい漫遊漫歩(142)(143)2020年9月号

中年にして安東流火さん(註.本名、次男、詩人、俳人、評論家)から連句の手ほどきを受け、夷齋先生(註.作家、石川淳)にねだって玩亭といふ号をつけていただき、大岡信さんを宗匠格にして歌仙に興じるやうになった。ときどき発句が口をついて出るのも自然の成行だらう。それは前衛にあらず月並にあらず、誠よりは風懐を重んじ、齷齪(あくせく)と美を求めずして滑稽に遊ぶ志のもの。

はいかい漫遊漫歩(140)(141)2020年8月号

僕(註:歌人、岡野弘彦)は丸谷さんに生前に墓碑銘を書くことを頼まれたのですが、表が俳号の「玩亭墓」だけなんですよ。びっくりしました。ここまで丸谷さんは俳句に徹していたのかと。 1970年、詩人の安東次男さんが大岡信さんと丸谷さんという、当時の若手の二人に歌仙を巻こうと声をかけて、歌仙の会が始まりました。安東さんの没後に岡野さんが入られ、大岡さんが体調を崩されて僕(註:俳人、長谷川櫂)が入って、丸谷さんが亡くなって三浦雅士さんが加わり、今も月1回の頻度で続いています。

はいかい漫遊漫歩(138)(139)2020年7月号

うちの子でない子がいてる昼寝覚め   米朝(俳号八十八) この句は、落語界ではただ一人、文化勲章受章者の桂米朝さんが平成17年7月の東京やなぎ句会で詠んだものである。俳号の八十八(やそはち)は、言うまでもなく米朝の上一字を分解したもの。平成27年で46年の句会歴を誇る東京やなぎ句会の創設以来の唯一の関西同人だったが、90歳を目前に同年3月、亡くなった。   交(さか)る蜥蜴くるりくるりと音もなし 加藤楸邨  夏の季語の蜥蜴を詠んだ句は数多い。だが、今日では滅多に“その ”現場に居合わせ、目撃するチャンスのない「貴重な出逢い」に遭遇した幸運な(?)写生句が掲題句だ。  われわれが目にするニホントカゲ(トカゲ亜目トカゲ属)の交尾期は4月から5月で、繁殖齢(生後2~3年)の蜥蜴の雄、雌が出逢うと互いに頭部を愛咬し、合意となると楸邨句の描写のようにユーモラスな交尾が始まる。

はいかい漫遊漫歩(136)(137)2020年6月号

弁証法を定式化した哲学者ヘーゲル、ブルボン家の最後の王シャルル十世、森鴎外の歴史小説で知られる江戸末期の医師、考証家、書誌学者の渋江抽斎、東海道五十三次を描いた浮世絵師の歌川広重、徳川十三代将軍家定、「白鳥の湖」、交響曲第6番「悲愴」などの作曲家チャイコフスキーに共通の死亡原因は、コレラ。

はいかい漫遊漫歩(134)(135)2020年5月号

 1970年代、80年代にかけて、第1句集『王権神授説』(75年刊)から『魔都 美貌夜行篇』(89年刊)まで6句集を世に問い、俳句界を駆け抜けた藤原月彦の『藤原月彦全句集』(六花書林)が、令和と元号が変わった2019年夏に刊行された。

はいかい漫遊漫歩(132)(133)2020年4月号

 俳聖芭蕉に〈 門人に其角、(服部)嵐雪あり〉(『桃の実』)と言わせた蕉門十哲の筆頭俳人、其角は大酒飲みだった。“歴史探偵 ”こと半藤一利さんは自著『其角俳句と江戸の春』(平凡社刊)で〈人柄もひとしお変っていた〉と書き、文化13年(1816)刊行の『俳人奇人談』(竹内玄一著)から引く。「其性たるや、放逸にして、人事に拘らず、常に酒を飲んで、其醒たるを見る事なし。ある日ふと詩人の会筵に行合せ、人々苦心しけるを、其角傍に酔臥し、仰ぎ居たり。己れ一秒句を得たりと起きあがりていふ、仰ギ見ル銀河ノ底ト」 〈 七五三という言葉を、私は「ひちごさん」と読む。「しちごさん」とは、まず言わない。私にとって、七は「ひち」であり、「しち」は不快にひびく。〉〈 東京の政府は、「しち」に正統性をあたえている。国語辞典は、「しち」以外の読み方を、みとめない。「ひち」は方言でしかないことを、思い知らされたのである。〉(井上章一著『京都ぎらい』朝日新書)

はいかい漫遊漫歩(130)(131)2020年3月号

高浜虚子が主宰する「ホトトギス」の4Sの一人、水原秋櫻子が自誌「馬酔木」(昭和6年10月号)に「自然の真と文芸上の真」を搭載、「客観写生」の師に反旗を翻し、脱会。4年後の昭和10年、もう一人の4S、山口誓子も「ホトトギス」を離れ、「ホトトギス」を去る前から投句していた「馬酔木」に移る。 〈秋櫻子、誓子らは有季定型を固持し、「京大俳句」は無季俳句を認め、新興俳句運動の先頭を走る。昭和9年3月、改造社から総合俳誌「俳句研究」が創刊され、「ホトトギス」などと同列に新興俳句を取り上げたため、俳句革新運動にも弾みがつき、新たな豊饒の時代を迎える。〉(『新興俳人の群像 「京大俳句」の光と影』田島和生著 思文閣出版刊)

はいかい漫遊漫歩(128)(129)2020年2月号

「ホトトギスの4S」(水原秋櫻子、高野素十、阿波野青畝、山口誓子)に名を連ねていた山口誓子も、水原秋櫻子の後を追って「ホトトギス」を離れ、秋櫻子の「馬酔木」に加入する。 風物を叙情性豊かに詠む秋櫻子、都会的な素材を取り込み、知的、即物的な詠句を次々に発表する誓子の作句活動は、「ホトトギス」一色だった俳壇に新風を吹き込むことになった。「天の川」「土上」「句と評論」などの俳誌に拠る若手俳人たちの共感を呼び、俳句の近代化への動きが湧き上がる。 西東三鬼は書く。〈 新興俳句人の生活感情は散文精神であり、之に対蹠的に伝統俳句を弄ぶ人々の生活感情は韻文精神である。〉

はいかい漫遊漫歩(126)(127)2020年1月号

俳句結社集団の一つ、現代俳句協会の70周年事業として協会青年部(神野紗希部長)の手で2018年12月、『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』(ふらんす堂刊)が出版された。 新興俳句は、水原秋櫻子が俳句創作に関して「自然の真」と「文芸上の真」の違いを主張し、高浜虚子の「ホトトギス」を脱会、自俳誌「馬酔木」を拠点に虚子俳句に対抗する創作活動を打ち出したのが、出発点。新興俳句とは、俳句は文学であるという意識のもとに、広く他ジャンルの表現に刺激を受けながら、さまざまな俳句表現の可能性を追い求めた昭和初期の文学運動を指す言葉だ。契機は、「俳句は文学である」と考える水原秋櫻子と、「俳句は俳句である」と考える高浜虚子との対立だった。 〈 子規の革命精神を引き継いでいるのは、虚子よりもむしろ新興俳句の作家たちではなかったか。〉と神野紗希は記す。〉

はいかい漫遊漫歩(124)(125)2019年12月号

 時は元禄14年(1701)旧暦3月14日巳の下刻(午前11時半過ぎ)、前を行く高家筆頭、吉良上野介の背後から浅野内匠頭が「この間の遺恨覚えたか」と叫んで礼式用の小刀で切りつけ、振り返った上野介の眉の上を傷つけた。さらに切りつけようとする内匠頭を居合わせた大奥御台所付き留守居番、梶川頼照(通称与惣兵衛)が羽交い絞めにし、側にいた御坊主(茶坊主)、関久和に「坊主、早く刀を取り上げろ」と怒鳴った。剃髪していても武士職分の久和、すばやく小刀を奪い、内匠頭は取り押さえられた。 内匠頭を取り押さえた梶川与惣兵衛は、この手柄で五百石加増され、千二百石取りの旗本に昇進。内匠頭の手から刀を取り上げた茶坊主、関久和は、白銀30枚を下されたが、御褒美辞退を申し上げた。この出処進退が城中城外に伝わるにつれ、2人は毀誉褒貶の渦中の人となる。  和漢、仏典合わせて123書目に眼を通し、不動の注釈書『奥細道菅菰抄』を書き上げた蓑笠庵(さりゅうあん)梨一。梨一は、前話で松の廊下刃傷沙汰の事件現場に居合わせた御坊主、関久和の次男。梨一は、高橋氏、名は髙(干)啓。正徳4年(1714)、武蔵児玉に生れた。幼時より治農の道を悟り、諸郡令に従って30余年間諸村を歴治した。元文の末頃柳居(註:蕉風の復古に努めた佐久間柳居。幕臣の俳人)に就いて俳諧を学び、明和初年越前丸岡に退き、この地に18年とどまり天明3年〈1783)、70歳で没した。その人となりは、伊東祐忠の『蓑笠庵梨一伝』に「清貧寡欲、家事を修めず、会計総て人に任ね、性来酒を好み、行遊散歩を事とす」とある。

はいかい漫遊漫歩(122)(123)2019年11月号

自由律俳句結社「海市」の句友で、住宅顕信(すみたく・けんしん)の没後、亡友の悲願の句集『未完成』を彌生書房の商業出版に漕ぎつけた池畑秀一の回想を『住宅顕信全俳句全実像―夜が淋しくて誰かが笑いはじめた』のあとがきから引く。顕信から電話をもらい、池畑が岡山市民病院を訪ね、入院中の顕信に初めて会ったのは、昭和61年(1986)8月。永の別れとなるわずか半年前のことだった。前話にも触れたが、当時、岡山大学の准教授(数学)だった池畑は、『層雲』に入門したばかりで、顕信は年下だが句歴は2年先輩だった。放哉、山頭火の存在を知る程度だった年上の池畑に自由律俳句について滔々と語る病人、顕信。  〈 彼の話は新鮮で魅力的だった。〉と池畑は書く。〈 それからほぼ二週に一度の割合で病室を訪れ、二人で俳句の世界に浸った。彼の俳句に対する態度はすさまじいもので、私はその気魄にいつも圧倒された。尾崎放哉に心酔しており、放哉全集は一冊はボロボロにしてしまい二冊目を使っていた。一句一句を心をこめて大事に作っていた。全国の俳友からの便りをテーブルに並べて説明してくれた時の顕信の嬉しそうな表情を忘れることが出来ない。…僅か半年の交際だったが、彼は私の心に多くのものを残していった。〉 句友池畑の熱意と彌生書房の英断で、顕信悲願の句集『未完成』は、亡くなって僅か1年後の昭和63年(1988)に全281句を収めて刊行。この句集によって、俳人顕信の句が知られるようになる。平成14年(2002)にはフランスの著名出版社ガリマール書店から日本俳句のアンソロジー『Haiku:Anthologie du poeme court Japonais』が出版された。内訳は松尾芭蕉から現代俳句まで507句を搭載。自由律俳句では種田山頭19句、尾崎放哉13句、そして謙信が9句選ばれている。  平成5年(1993)2月、岡山市内を流れる旭川の畔で顕信句碑の除幕式が行われた。次の句が刻まれている。  水滴のひとつひとつが笑っている顔だ 

はいかい漫遊漫歩(120)(121)2019年10月号

私家版の『試作帳』と死後に句友らの尽力で彌生書房から出版された『未完成』の二句集で「自由律俳人」の名を遺すことになった住宅顕信(すみたく・けんしん)。顕信の遺した俳句は300句足らず。しかもそのほぼ全てが、昭和59年2月に急性骨髄性白血病を発病して岡山市民病院に入院し、退院することなく同62年2月に25歳で亡くなるまでの3年間に詠んだものである。 〈 昭和の終わりに、『層雲』の夭折俳人・住宅顕信が句集『未完成』に珠玉の句を遺したことを、特記しておきたい。〉と川名大に著書『現代俳句〈上〉名句と秀句のすべて』(ちくま学芸文庫)に紹介され、俳句文芸に名と句が刻まれた。

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