春耕俳句会は、有季定型の俳句と和楽の心で自然と人間の中に新しい美を探求します。第五感・第六感を働かせた俳句作りを心がけます。
連載記事 - 月刊俳句雑誌「春耕」掲載

はいかい漫遊漫歩

はいかい漫遊漫歩(126)(127)2020年1月号

俳句結社集団の一つ、現代俳句協会の70周年事業として協会青年部(神野紗希部長)の手で2018年12月、『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』(ふらんす堂刊)が出版された。 新興俳句は、水原秋櫻子が俳句創作に関して「自然の真」と「文芸上の真」の違いを主張し、高浜虚子の「ホトトギス」を脱会、自俳誌「馬酔木」を拠点に虚子俳句に対抗する創作活動を打ち出したのが、出発点。新興俳句とは、俳句は文学であるという意識のもとに、広く他ジャンルの表現に刺激を受けながら、さまざまな俳句表現の可能性を追い求めた昭和初期の文学運動を指す言葉だ。契機は、「俳句は文学である」と考える水原秋櫻子と、「俳句は俳句である」と考える高浜虚子との対立だった。 〈 子規の革命精神を引き継いでいるのは、虚子よりもむしろ新興俳句の作家たちではなかったか。〉と神野紗希は記す。〉

はいかい漫遊漫歩(124)(125)2019年12月号

 時は元禄14年(1701)旧暦3月14日巳の下刻(午前11時半過ぎ)、前を行く高家筆頭、吉良上野介の背後から浅野内匠頭が「この間の遺恨覚えたか」と叫んで礼式用の小刀で切りつけ、振り返った上野介の眉の上を傷つけた。さらに切りつけようとする内匠頭を居合わせた大奥御台所付き留守居番、梶川頼照(通称与惣兵衛)が羽交い絞めにし、側にいた御坊主(茶坊主)、関久和に「坊主、早く刀を取り上げろ」と怒鳴った。剃髪していても武士職分の久和、すばやく小刀を奪い、内匠頭は取り押さえられた。 内匠頭を取り押さえた梶川与惣兵衛は、この手柄で五百石加増され、千二百石取りの旗本に昇進。内匠頭の手から刀を取り上げた茶坊主、関久和は、白銀30枚を下されたが、御褒美辞退を申し上げた。この出処進退が城中城外に伝わるにつれ、2人は毀誉褒貶の渦中の人となる。  和漢、仏典合わせて123書目に眼を通し、不動の注釈書『奥細道菅菰抄』を書き上げた蓑笠庵(さりゅうあん)梨一。梨一は、前話で松の廊下刃傷沙汰の事件現場に居合わせた御坊主、関久和の次男。梨一は、高橋氏、名は髙(干)啓。正徳4年(1714)、武蔵児玉に生れた。幼時より治農の道を悟り、諸郡令に従って30余年間諸村を歴治した。元文の末頃柳居(註:蕉風の復古に努めた佐久間柳居。幕臣の俳人)に就いて俳諧を学び、明和初年越前丸岡に退き、この地に18年とどまり天明3年〈1783)、70歳で没した。その人となりは、伊東祐忠の『蓑笠庵梨一伝』に「清貧寡欲、家事を修めず、会計総て人に任ね、性来酒を好み、行遊散歩を事とす」とある。

はいかい漫遊漫歩(122)(123)2019年11月号

自由律俳句結社「海市」の句友で、住宅顕信(すみたく・けんしん)の没後、亡友の悲願の句集『未完成』を彌生書房の商業出版に漕ぎつけた池畑秀一の回想を『住宅顕信全俳句全実像―夜が淋しくて誰かが笑いはじめた』のあとがきから引く。顕信から電話をもらい、池畑が岡山市民病院を訪ね、入院中の顕信に初めて会ったのは、昭和61年(1986)8月。永の別れとなるわずか半年前のことだった。前話にも触れたが、当時、岡山大学の准教授(数学)だった池畑は、『層雲』に入門したばかりで、顕信は年下だが句歴は2年先輩だった。放哉、山頭火の存在を知る程度だった年上の池畑に自由律俳句について滔々と語る病人、顕信。  〈 彼の話は新鮮で魅力的だった。〉と池畑は書く。〈 それからほぼ二週に一度の割合で病室を訪れ、二人で俳句の世界に浸った。彼の俳句に対する態度はすさまじいもので、私はその気魄にいつも圧倒された。尾崎放哉に心酔しており、放哉全集は一冊はボロボロにしてしまい二冊目を使っていた。一句一句を心をこめて大事に作っていた。全国の俳友からの便りをテーブルに並べて説明してくれた時の顕信の嬉しそうな表情を忘れることが出来ない。…僅か半年の交際だったが、彼は私の心に多くのものを残していった。〉 句友池畑の熱意と彌生書房の英断で、顕信悲願の句集『未完成』は、亡くなって僅か1年後の昭和63年(1988)に全281句を収めて刊行。この句集によって、俳人顕信の句が知られるようになる。平成14年(2002)にはフランスの著名出版社ガリマール書店から日本俳句のアンソロジー『Haiku:Anthologie du poeme court Japonais』が出版された。内訳は松尾芭蕉から現代俳句まで507句を搭載。自由律俳句では種田山頭19句、尾崎放哉13句、そして謙信が9句選ばれている。  平成5年(1993)2月、岡山市内を流れる旭川の畔で顕信句碑の除幕式が行われた。次の句が刻まれている。  水滴のひとつひとつが笑っている顔だ 

はいかい漫遊漫歩(120)(121)2019年10月号

私家版の『試作帳』と死後に句友らの尽力で彌生書房から出版された『未完成』の二句集で「自由律俳人」の名を遺すことになった住宅顕信(すみたく・けんしん)。顕信の遺した俳句は300句足らず。しかもそのほぼ全てが、昭和59年2月に急性骨髄性白血病を発病して岡山市民病院に入院し、退院することなく同62年2月に25歳で亡くなるまでの3年間に詠んだものである。 〈 昭和の終わりに、『層雲』の夭折俳人・住宅顕信が句集『未完成』に珠玉の句を遺したことを、特記しておきたい。〉と川名大に著書『現代俳句〈上〉名句と秀句のすべて』(ちくま学芸文庫)に紹介され、俳句文芸に名と句が刻まれた。

はいかい漫遊漫歩(118)(119)2019年9月号

 慢性骨髄性白血病を発症、2004年末に45歳で夭折した俳人、田中裕明。遺句集となった第5句集のタイトル「夜の客人」について、俳誌『澤』2008年7月号に搭載の「俳句史のなかの田中裕明」で俳人、宗田安正は、裕明が生前、「夜の客人」とは自分に巣食った病気(白血病)のことだと、妻で俳人の森賀まりに話していたと記している。

はいかい漫遊漫歩(116)(117)2019年8月号

 荻原井泉水の主宰俳誌『層雲』に拠り、自由律俳人として名を残した種田山頭火と尾崎放哉。師をともにする2人が生前直接会うことはなかった。山頭火は、太平洋戦争へと繋がる国内の不穏の情況を行乞の眼で詠んだ句が一代句集『草木塔』に遺されている。同句集の搭載句数は701句。大正14年から死の1年前まで15年間に詠んだ約9千句から自選した中に「銃後」のタイトルで戦争句25句が収められている。  薩摩藩の琉球侵攻、明治政府の琉球処分の流れは、大戦末期に沖縄を悲惨な地上戦の戦場にし、いまなお日本の米軍基地の74%を押し付けている現実。俳句の世界にも沖縄差別があっていいのかと目を向けたら、沖縄の俳人たちが1979年の小熊一人編『沖縄俳句歳時記』(琉球新報社刊)を皮切りに沖縄俳句研究会編・発行『沖縄俳句歳時記』、瀬底月城・沖縄県俳句協会編『沖縄・奄美・南島俳句歳時記』の復刻版が出て、2017年5月には沖縄県現代俳句協会編『沖縄歳時記』(文学の森刊)が刊行されたことを知った。

はいかい漫遊漫(114)(115)2019年7月号

平成時代が31年をもって幕を閉じた。この時代を回顧する本が次々に登場することだろう。その先陣を切り、予め定められた時代の区切りにタイミングを合わせて刊行されたのが、『俳句の水脈を求めて―平成に逝った俳人たち』(角谷昌子著 角川書店刊)。 〈 昭和を生き、平成に逝った26俳人の作品と境涯。彼らはどのように俳句と向き合い、何を俳句に託したか。そのひたむきで多様な生と、魂の表現としての俳句の水脈を探る。〉と帯文が謳う同書に登場の女性俳人は、飯島晴子、野沢節子、桂信子、中村苑子、細見綾子、津田清子、鈴木真砂女の7名。 俳句を始めたのは22歳で、松瀬青々の「倦鳥」に初入選し、同年投句の〈 来てみればほゝけちらして猫柳 〉が巻頭を取る。角谷の記述を引く。 〈 綾子は当時を振り返って、松瀬青々は「生きる魅力と涙」をよく知っている人物であり、師の「俳句の甘美」がなかったら、自分は俳句を作っていなかったと断言する。すべてのものが「空虚」かつ「蕭条」としてぽっかり虚無の口を開けている。そんななか、青々俳句の優しさは命を吹き込む泉の水だった。〉

はいかい漫遊漫歩(112)(113)2019年6月号

昭和21年、雑誌『世界』11月号に掲載された桑原武夫の論文『第二芸術 ―現代俳句について―』が巻き起こした第二芸術論争に泰然として「俳句も第二芸術になりましたか」と言い放った虚子。 阿波野青畝、山口誓子、高野素十と並び、虚子門の「ホトトギスの四S」と呼ばれながら、「自然の真と文芸上の真」の絶縁論文を発表、離脱した水原秋櫻子の作品に対する虚子の評価。 日野草城は、29歳で「ホトトギス」の同人になったが、その5年後、新婚初夜をモチーフにしたエロティシズム溢れる連作「ミヤコホテル」十句を『俳句研究』に発表、俳壇のスキャンダル事件となる

はいかい漫遊漫歩(110)(111)2019年5月号

虚子曰「例句の伴はない新季語は未だ季語として認めるわけにはいかぬ。いゝ句の出来てゐる新季語はどしどし採用すべきである。歳時記は常に多少とも異変しつゝある。」

はいかい漫遊漫歩(108)(109)2019年4月号

高浜虚子没後60年を翌年に控えた平成30年夏、戦後俳句を晩年の虚子がどう理解、批評していたかを伝える “肉声の記録 ”を復刻、発言の場に同席していた弟子たちの証言と合わせた貴重な一冊『虚子は戦後俳句をどう読んだか―埋もれていた「玉藻」研究座談会―』(筑紫磐井編著 深夜叢書社刊)が刊行された。 虚子は俳句の評価を花鳥諷詠や客観写生で行っていない。俳句らしい思想と措辞をもっているかで決定する。

はいかい漫遊漫歩(106)(107)2019年3月号

歌舞伎町のど真ん中。薄暗い路地の奥に「砂の城」というアートサロンがある。体重を乗せるたびに悲鳴をあげる古びた階段を三階まで上がると、八畳ほどのスペースがある。ここで僕らは新宿歌舞伎町俳句一家「屍派」を名乗り、句会を行っている。  集まる面々は、ニート、女装家、元ホスト、バーテンダー、ミュージシャン、医者、彫刻家など、市井の句会ではまず見かけない者たちばかりだ。

はいかい漫遊漫歩(104)(105)2019年2月号

杏太郎は「老人とは人間の生きざまの果てに、かがやいているもの」だという。思うにこの三人称には、作者自身も投影されている。

1 2 3 4 »
PAGETOP
Copyright © 春耕俳句会:Shunkou Haiku Group All Rights Reserved.
Powered by WordPress & BizVektor Theme by Vektor,Inc. technology.