自由時間 (58) ルイス・フロイス          山﨑赤秋

 

 1591年3月3日(天正十九年閏一月八日)、伊東マンショら天正遣欧少年使節一行は、聚楽第で秀吉に謁見し、楽器を鳴らして西洋音楽を聞かせた。伴天連追放令が出ていたので、インド副王の使節という形にして訪問したのであるが、その正使は、遣欧少年使節の発案者であるイエズス会東インド管区の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノその人であった。その通訳として随行したのはルイス・フロイスである。

 フロイスは、1532年リスボン生まれ。父は大学図書館の写本係であった。フロイスは書記見習として、九歳のときから王宮秘書庁に仕える。十六歳になったとき、フランシスコ・ザビエルにあこがれてイエズス会に入会する。兄も姉も聖職者の道を歩んでいたので、この子にこそ後継ぎをと期待していた両親はがっかり。二人とも寝込んでしまったとか。
 その年のうちに、アジア布教の拠点であるインドのゴアに渡る。その地にあった聖パウロ学院で学ぶためである。そこで日本渡航を決めたザビエルと日本人協力者ヤジロウに出会う。この出会いが、その後のフロイスの人生を運命付けることになる。ザビエルが鹿児島に到着したのは、1549年のことである。
 フロイスは二十九歳で司祭に叙階される。学院では、語学と文筆の才能が抜群で、記憶力もよく物識りであったので、よい説教家になるであろうと評価されている。欠点は饒舌すぎること。いつの世も、おしゃべりはいるもんだ。その才能を生かして、各宣教地からの通信を扱う仕事に従事している。

 日本に上陸したのは、1563年、三十一歳であった。念願の日本での布教活動を開始する。その活動は平坦なものではなく、苦難に満ちたものだった。日本語を学んだ後、西日本各地を布教して回る。やがて、京都地区の布教責任者となる。信長や秀吉の面識を得たのはこのころのことである。信長には特に気に入られ、招かれて二十回近く謁見している。
 五十歳を過ぎたころから、布教活動の第一線を退き、日本におけるイエズス会の活動の記録を残すことに専念するようになる。以後フロイスはこの事業に精魂を傾け、そのかたわら全国をめぐって見聞を広めた。この記録が『日本史』である。
『日本史』といっても、通史ではない。1549年のザビエル日本上陸から1593年までの、日本における布教史というべきものである。現在邦訳を読むことができるが、中公文庫で十二冊もある。原稿を送られたイエズス会本部は、フロイスは文章もおしゃべりだとして、簡潔にするよう求めるが、フロイスは言うことを聞かない。そのため、直ぐに出版されることはなく、復刻されたのは二〇世紀も末のことである。
 フロイスの『日本史』は、戦国日本を知るうえで第一級の史料であるというのが定説である。例えば、失われた岐阜城や安土城の復元図を描くには、フロイスの詳細な訪問記が大いに役立っている。
 フロイスは、『日本二十六聖人の殉教記』を最後に著し、五ヶ月後、1597年7月8日、長崎のコレジオで没した。六十五歳。
『日本史』には興味深い記述が満載であるが、その中から、信長と秀吉の人物評を紹介する。(川崎桃太訳)

 信長は、「天下を統治し始めた時には、三十七歳くらいであったろう。彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、髯は少なく、はなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。幾つかのことでは人情味と慈愛を示した。彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。貪欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術に極めて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。彼はわずかしか、またはほとんどまったく家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。酒を飲まず、食を節し、人の取扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話した。そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した。彼は戦運が己れに背いても、心気広闊、忍耐強かった。彼はよき理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった」
 秀吉評は、次のとおりである。秀吉は、「身長が低く、また醜悪な容貌の持主で、片手には六本の指があった。眼がとび出ており、シナ人のように鬚が少なかった。男児にも女児にも恵まれず、抜け目なき策略家であった。彼は自らの権力、領地、財産が順調に増して行くにつれ、それとは比べものにならぬほど多くの悪癖と意地悪さを加えていった。家臣のみならず外部の者に対しても極度に傲慢で、嫌われ者でもあり、彼に対して憎悪の念を抱かぬものとてはいないほどであった。関白は極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺しており、二百名以上の女を宮殿の奥深くに囲っていたが、さらに都と堺の市民と役人たちの未婚の娘および未亡人をすべて連行して来るように命じた」

 フロイスには、『日本史』のほかに、『日欧文化比較』(岩波文庫では『ヨーロッパ文化と日本文化』)という
興味深い著作もある。十四章六〇九項目にわたって、日欧の風習を比較したものである。例えば、「われわれの間では偽りの笑いは不真面目だと考えられている。日本では品格のある高尚なこととされている」などなど。