子規の四季(84)      子規の雅号         池内けい吾

常規凡夫(じょうきぽんぷ) 丈鬼(じょうき) 子規(しき) 獺祭魚夫(だっさいぎょふ) 秋風落日舎主人(しゅうふうらくじつしゃしゅじん) 野暮流(のぼる) 盗花(とうか) 沐猴冠者(もっこうかじゃ) 莞爾生(かんじせい) 蕪翠(ぶすい) 迂歌連達磨  馬骨生(ばこつせい) 色身情佛(しきしんじょうぶつ)虚無僧(こむそう) 真棹家(まさおか) 嫦嫢(じょうき) 冷笑居士(れいしょうこじ) 放浪子(ほうろうし) 痴夢情史(ちむじょうし) 蔗尾道人(しょうびどうじん) 四国仙人(しこくせんにん) 披襟生(ひきんせい) 浮世夢之助(うきよゆめのすけ)  有耶無耶漫士(うやむやまんし) 情鬼凡夫(じょうきぽんぷ) 野球(のぼる) 都子規(つねのり) 花ぬす人   獺祭書屋主人(だっさいしょおくしゅじん) 香雲散人(こううんさんじん) 秋の幽霊  獺祭魚子  無縁大士(むえんだいし) 竹ノ里人(たけのさとびと) 西子(せいし) 漱石  老桜(ろうおう) 好吟童子(こうぎんどうじ) 櫻亭仙人(おうていせんにん) 面読斎(めんどくさい) 螺子(らし) 香雲 

 

 上に掲げたのは、松山市立子規記念博物館に「子規のペンネーム」として展示されている四十二の雅号。展示は子規の自筆を写真パネルにしたものだが、読み方についての問い合わせが多いということなので、上記にはふりがなを付した。
 子規の初期の随筆『筆まかせ』(明治23年)に「雅号」という短文がある。その中で、子規は日本で雅号の多いのは滝沢馬琴、太田南畝、平賀源内の三人で、一人で十余の雅号を用いたと述べている。そして子規自身の雅号はといえば、この一文に登場するものだけで実に五十四にのぼっている。
 子規はまず幼少期の雅号についてこう述べている。

 

   我郷里の旧家には一株の桜樹ありて庭中を蔽ふ故 余は十余歳の時「老桜」と名づけたり、後山内伝蔵翁余に「中水」といふ名を給ふ 中水は中ノ川の意にて余が家、中の川に瀕するによりて也
 此名は自分の気に入らざりし故使用せしこと少し 明治十四五年の頃大原叔父、余の書斎の額にとて五友先生の揮毫をこひしに 先生「香雲」の二字を書き給へりしかば それより「考桜」「中水」の二号をすてゝ「香雲」といふ号となせり。
故に今日にても 時として余を呼ぶに香雲の名を以てする者あり 香雲は蓋し桜花の形容なり

 

 中の川は松山市街のほぼ中央を東西に流れる人工の水路で、江戸時代に城の外堀を常時満水にするために掘られたもの。川沿いに柳並木があり、下級武士の居住地であった。正岡家もこの川沿いにあり、庭を蔽う一株の桜の木は「正岡の桜」として城下に知られていたという。その桜樹に由来する「香雲」の号を揮毫してもらったという額は、正宗寺に復元された正岡家旧居(子規堂)の子規の書斎に現在も掲げられている。
 その後も、子規は中国風や酒落に富んだ数々の雅号を作ることを楽しんでいたようだ。中でも子規の諧謔さを感じさせるものに、迂歌連達磨(うかれだるま)・有耶無耶漫士(うやむやまんし)・浮世夢之助(うきよゆめのすけ)・色身情仏(しきしんじょうぶつ)・物草次郎(ものぐさじろう)・馬骨(ばこつ)などがある。

 

此頃余は雅号をつける事を好みて自ら沢山撰みし中に「走兎」「風簾」「漱石」などのあるだけ記憶しゐれど其他は忘れたり。走兎とは余卯の歳の生れ故 それにちなみてつけ 漱石とは高慢なるよりつけたるものか。又字(あざな)をつけんとてはじめは「士清」とせしが 後に多くの雅号を生ずるに至りて此字は全くすてたり。然るに詩友などは矢張支那風に文章にては人の字を呼ぶ故 士清と書く者あり、自らいやに思ひし故、いつそ字を「子升」とせんかと考へゐたり 「升」は余の俗称なり。然るに去歳春喀血せしより「子規」と号する故 自然と字にも通ひて其後は友人も子規と書するに至れり

 

 『筆まかせ』は、上のように「子規」の雅号が定着した経緯を述べている。注目されるのは子規の字の一つに「漱石」があること。欄外の自注に「漱石は今友人の仮名と変セリ」とあることから、親友漱石の号は子規が譲ったものではないかとの説もある。子規が喀血した明治22年5月、「子規」「漱石」の号がほぼ同時に使い始められたのも、奇縁というべきかもしれない。
 その後、俳句では多くは「子規」を、短歌と新体詩では「竹乃里人」、俳論などには「獺祭書屋主人」と、ジャンルにより雅号を使い分けたことは周知のとおりである。『筆まかせ』は、冒頭に揚げた以外の雅号についても触れている。

 

猶此外以外に種々の雅名ありしが 少し使用せしもあり 又全く書きしことなきもあり 其おもなるは「饕餮( とうてつ)居士」「僚凡狂士」「青考亭上其」「裏棚舎夕顔」「薄紫」「蒲柳病夫」「病鶴痩士」「無縁痴仏」「舎蚊無二仏」「癡肉団子」「仙台萩之亟」「無何有洲主人」「八釜四九」「面読斎」など数へ尽すべからず

 

 そのほか一ツ橋外の中学寄宿舎にいたころは「一橋外史」、猿楽町に住んでいたころには「猿楽坊主」と号したこともあったという。

(「子親の四季」は連載7年に連したところで、一旦休筆させていただきます。いずれ資料を整理の上、続編を執筆させていただく所存です)