曾良を尋ねて(97)             乾佐知子

─ 越後・村上での曾良の一考察 Ⅰ ─

   越後路に入った芭蕉は僅か数行で越中市振に話を飛ばす。(此間日、暑湿の労に神(しん)をなやまし、病おこりて事をしるさず)とある。確かに何度も強い雨にあったり宿の手違いもあり気分が乗らなかったのであろう。
 しかし曾良の日記にはこの間の事情が克明に記されており興味深い。
 27日に温海を発った二人は珍しく別行動をとる。(翁ハ馬ニテ直ニ鼠ヶ関被趣、予ハ湯本ヘ立寄、見物シテ行)とある。曾良が湯本視察の為に芭蕉が一人で鼠ヶ関へ向かったことがわかる。

 28日、朝晴。中村ヲ立、到蒲萄。甚雨降ル。追付、止。申ノ上刻ニ村上ニ着、宿借テ城中へ案内。喜兵・友兵来テ逢。彦左衛門ヲ同道ス。

 この村上宿については以前の本稿ですでに詳しく述べているので今回は別の観点から検討してゆきたい。
 午後三時半頃村上の旅籠大和屋久右衛門にわらじを脱いだ。久右衛門は待ちかねていたかのようにすぐ曾良を城中へ案内する。村上城は臥牛山という小高い丘の上にあり城下を一望することができる。普通の旅人がここを登ることはまず有り得ない。しかも同道者も連れて行く、ということは単なる家臣でもない。
 曾良は岩波庄右衛門正字(まさたか)として伊勢長島藩の松平良尚に仕えていた。二十三歳の時、良尚の二男忠充の補佐役として江戸へ赴く。
 江戸城中にある松平家の屋敷には三男の良兼がいた。良兼は十六歳まで江戸におり伊勢には行っていない。この年に越後の村上藩の筆頭家老榊原直久の聟養子としてこの村上城に入ったのである。
 正字(曾良)とは七歳年下で「一燈」の俳号も持っていることから、良き句友として、また曾良にとっては弟のように親しい存在であったと思われる。
 しかしその良兼は2年前に三十三歳の若さで亡くなってしまった。芭蕉と曾良がこの村上を訪れたのは、その祥月命日の前日だった。二人は良兼の墓参の為にこの日に合わせて村上へ着いたと推測される。
 松平良尚(康尚)は家康の六男忠輝とは異母兄弟の子供にあたり、江戸本所にある諏訪家の上屋敷と松平佐渡守の上屋敷とはごく近くにあって両家は懇意な間柄であった。とすれば忠輝がまだ十二歳だった正字が養子先の両親を失い独り身となったのを知り、気の毒に思い武士として生きられるよう松平良尚に頼んだのではなかろうか。
 曾良は忠輝の「隠し子」ではないか、という私の素朴な疑問からこの連載はスタートしているわけだが、その答えは翌日の曾良の日記でさらに確信へと変わっていったのである。