曾良を尋ねて (91)  乾佐知子

ー仙台藩における芭蕉と曾良の関わりー

 数回にわたり伊達藩の内紛について検証してきたが、この東北の大藩が芭蕉と曾良にとっていかに密接な関わりを持っていたか、という点については意外と知られていない。今回はこの二人との関連性について改めてまとめていきたい。
 曾良がこの仙台藩と並々ならぬ関係にあることは拙稿の(82) と(83) において説明して来た。
 義理の母と思われる五郎八姫の天麟院の子供である「黄河幽清」なる人物を訪ねていることや、生地である諏訪とのもろもろの不思議な関わりからして曾良にとってこの旅は重要な陰のポイントであったといえよう。
 一方芭蕉もこの伊達騒動では意外な影響を受けた一人であった。この事件で大きな役割を占める酒井忠清の縁者だったことである。
 10年来くすぶっていた内紛が、原田甲斐の刃傷事件によって一気に表面化したのが1671(寛文11)年だが、芭蕉達がこの地を訪れた元禄2年は1689年だから18年前の出来事ということになる。
 そして老中筆頭となり権勢をふるっていた忠清が綱吉の代になって突然失脚させられたのが
延宝8年の1680年であるから、その冬に芭蕉が深川に移住した年と重なる。

 結局忠清はこの騒動の九年後に失脚し、翌年死亡しているが、この死因について幕府から詮議を受けていた。当時の酒井家の娘婿が藤堂髙久であったことはすでに述べたが、この髙久は芭蕉を江戸に呼んだ理解者でもあった。藤堂一門の縁者である芭蕉の身を案じた伊奈半十郎の判断で、急遽日本橋から深川の「元船番所」つまり半十郎の屋敷内に身を移したのだった。順風満帆だった俳諧の生活を捨てて絶望の淵に立った芭蕉の人生は、皮肉にもこの不幸な出来事がきっかけで真の才能を開花させたのではないか、といわれている。

 仙台藩にとって酒井忠清の存在は未だに強烈な印象を残すものであった。その縁を引く芭蕉が藩内に立入ったとなれば、幕府の命を受けている可能性があり、藩にとってはゆゆしき事態であり緊張が走ったとしても無理はない。

 「細道」では松島に滞在した日付を2日ずらして流麗な文章で記述しているが、実情は曾良の旅日記に克明に記されており、いかに二人が緊迫した時を過したかがよく分かる。当然この地では一回も連句の会は開かれていない。
 足早に仙台を発った二人は、いよいよ念願の平泉へと急いだ。しかしあれこれ行くうちに道に迷い2石巻といふ港に出づ”とある。
 「細道」には”思いかけず”とあるが、このコースは初めから予定されていたものであった。”数百の廻船入江につどひ”という一節からもわかるように海上の視察が目的であったことは明白である。
 現地の繁栄ぶりを知るには、そこの主要な港を見れば一目瞭然であり、曾良はその土地の実態を細かに記録して公儀に送っていたものと思われる。
 曾良にとって本来の旅の使命が現地の実情調査であったことは、村松友次氏の『謎の旅人 曾良』や光田和伸氏の『芭蕉めざめる』等に詳しく記述されている。
 土地の繁栄振りや人々の動きに不穏な動きはないか、という情報は幕府にとって最も重要な事項となっていた。当然危険の伴うこの仕事だが芭蕉と共に行動することで、身の安全も保証されることが出来たのである。