「晴耕集・雨読集」4月号 感想  柚口満

鷺一羽佇つ背戸の田の淑気かな池内けい吾

   この句の作者が淑気を掲出句のような光景に感じとったのは十分納得できる。いわばこの景色は田舎で育った作者の原風景である。高校まで育った傍らには常に農作業の手伝いの営みがあったからだ。
 正月の家の真後ろの田に真っ白な鷺が身じろぎもせずに立つ姿は、これ以上の瑞相、瑞兆はないものであった。東京暮らしが人生の大方を占めるようになった作者であるが、あの日の元旦の鷺一羽の風景は今でも脳裏から離れない淑気なのである。

探梅や湯浴みの馬を覗きもし  
吉田初江 

 作者はいわきの方だから湯浴みの馬と言うのはいわきにある通称馬の温泉、正確にいうとJRA日本中央競馬会の競走馬リハビリテーションのことである。
 仲間と探梅にでかけたついでに馬の温泉を覗いたという設定が面白い。レースで骨折や屈腱炎などを発症した馬たちが温泉プールで懸命に療養する姿をみて、きっと力を貰ったに違いない。探梅だけでなく思わぬ楽しい一日であった。

ここだけの話たのしむ春炬燵                                       奈良英子

 ここだけの話、ってなんだろう。この意味深長なもの言いが入ったことだけで読む人をまず引きつける一句である。
 ここだけの話、という慣用語を辞書でひいてみると「他の所で話しては困る秘密の話」とあるが、この句の場合はそんな大袈裟な話ではないだろう。卓の代用をも兼ねた春の炬燵で気が合った同士のちょっといえない楽しい話だったのだ。春炬燵の季語が句の全体を明るいものにしている。

鍋の火を細めてよりの狩自慢萩原まさこ

 「狩」は冬の季語。最近は鳥や獣の保護や人間の安全性を重視して狩猟地やその許可の期間が定められ、本格的な狩人や猟師の話を聞く機会が少なくなった。この句の場合は本格的な猟師のリアルな話を聞く機会の恵まれたのであろう。
 煮えたぎる鍋の火を細めてからやおら始まった狩りの自慢話。上五、中七の表現にその話の緊迫感、期待感が増幅された。

身巾ほど払ひ落とせり軒つらら窪田明

 厳寒地の軒の氷柱が想像できる。昼間の融ける温度より外気が低くなるほど氷柱は日々長く育つ理屈となる。この句はその氷柱が長く育ち過ぎ、家の玄関の出入りにも支障が出てきたと詠む。そこで人間の見巾の長さだけ切り払って自由を確保したのだ。雪にしても氷柱にしても厳冬と闘う人たちの苦労が偲ばれる一句。

大空に確と道あり鳥帰る松谷富彦

 渡り鳥は春になると北方の繁殖地へ帰って行く。その姿に作者は中七で確かな帰り道があるという。しかし、この断定は確たるものというより帰路を違えぬ不思議な能力に脱帽した末の表現であろう。渡り鳥は景色や太陽や星座を見て、また地磁気を身体で検知するなどともいわれるがその超能力は未知だらけである。

風の音水の音春遠からじ 後藤紀美子

 春近しの傍題に春遠からじがある。暦の上ではまだ寒中であるが、春は間もなくと思えば気分が浮き立ってくるのである。
 郊外で得られた一句であろう。尖っていた風は心なしか柔らかくなり小川の流れの音も軽くなってきた。作句の時は春近しが客観的、春を待つは主観的な季語であることを覚えておきたい。

呼子して鷹匠空を操れり祢津あきら

 毎年正月に浜離宮で行われる鷹狩の実演を何度か見たことがあるが鷹匠と鷹の息のあった妙技には目を見張る思いであった。
 はるか遠くの高い所に鷹を準備し、呼子ひとつで鷹匠の手に戻る様子は圧巻だった。この句、空を操れりの把握が見事である。

鍛冶始幣の白さの際だてり真木朝実

 文部省唱歌に「村の鍛冶屋」というのがあったが鍛冶屋はめっきりと少なくなった。この句は新年の鍛冶屋の仕事始めを詠んでいる。鍛冶屋の仕事場は古色蒼然としているのが相場、火で煤けた暗い部屋に儀式に使う神棚の白い幣が印象的だった。

作りものめく臘梅をつつきけり山田高司

 遠目に見る臘梅は青空に黄色が映えて初冬をいろどる印象的な花である。近づいて鑑賞するとまずその香りの良さと蠟細工めく花弁に驚く。作者はこの珍しい臘梅の質感に興味を示しその花びらをつっついてみたという。探究心は俳人の必須条件の一つである。