曾良を尋ねて (130)           乾佐知子
─曾良巡検使随員に関する一省察─

 それまで六十六部の姿で、外見は「半乞食」の風体をして各地を巡回してい人物が、一夜にして2000石の旗本の御用人として幕閣の巡検使に名を連ね、1000貫もの大金を預かって越年したのである。
 この意外な展開には、万人が驚いたことであろう。ましてや当時は身分制度には特に厳しかった江戸時代中期のことである。御用人といえば家老に次ぐ重鎮で、先祖代々家柄の定まった身分の高い者以外は継承することが出来なかった。たとえ役目の上で六十六部の変装を解いて元の家臣に戻ったとしても、御用人になることは有り得ないのだ。
 では何故曾良がこの時点で岩波庄右衛門正字の本名で公儀の記録に残っているのか。今迄も謎の多かった曾良であるが、今回の場合は歴然とした結果があり、ここから遡って検証をしてみたい。
 かつて曾良に興味を覚えた多くの研究者達が皆共通に感じることは、幼児期に生みの親から離され次々と養子に出される哀れな境遇と、青年時代を過した長島藩の家臣名簿にも吉川惟足の道場名簿にも彼の名前は見られないという不可解な点である。これ迄己の過去の行動を記そうとしなかった、或は記せなかった「正字」の名前が今回は堂々と記載された原因について私なりに推測してみたい。
 それは前年(1709)六代将軍家宣が出した「大赦令」である。古来より日本の歴史において、本人は何の罪を犯していなくても、先祖や親、藩主が罪人として汚名を着せられていた場合は、子孫の者は代々にわたって生涯を日陰の身で暮らさなければならなかった。争いの絶えなかった江戸時代の初期には、このような者が巷に多くいたと思われる。
 この理不尽さに思い至った家宣は、先祖の過去の罪は一切問わず「無罪放免せよ」との大号令を出したのではないか。その結果、赤穂浪士の遺子達も流刑となっていた伊豆からの帰還が許されたのである。
 ということは、二代将軍秀忠の一方的な警戒心から35歳で諏訪に流罪となり、その後60年近くにわたった残りの人生を東北の地で果てた松平忠輝の罪もこの「大赦令」によって消滅したといえまいか。従って、もし曾良こと正字が忠輝の真の遺子であれば、当然彼の人権も復活され、晴れて公儀の官職に就くことも可能となるのである。この人生の大逆転ともいえる「大赦令」がなければ正字の巡検使随員もなければ当然御用人としての登用も無かったであろう。
 話は変るが、天和3年(1683)曾良が甲州谷村で初めて芭蕉と対面した時に、私は曾良が何故この山奥に芭蕉が居ることを知り得たのか、と拙稿で書いているが、最近の情報によれば諏訪で用事を済ませた曾良が江戸に帰る途中で谷村に寄っており、その用事というのが当時92歳になる忠輝を見舞うことだったという。この真偽の程は判らないが忠輝はその年7月に亡くなっている。
 松平忠輝については「春耕」平成22年の5月号と6月号に詳しく述べているので再読頂ければ幸いである。