「晴耕集」10月号 感想                     柚口満  

夜濯を終へてエッフェル塔仰ぐ升本榮子

 この句の作者、榮子さんはこの10月に第二句集『角巻』を上梓された。第一句集から30年、選び抜かれた中味の句群は充実していて其の作句の旺盛力に敬意を表したいと思う。
 さて第二句集にも海外への旅の句が散見されるが、この句もフランスはパリでの一句である。エッフェル塔の近くのホテルでの旅の夜濯である。旅慣れた手つきで小物を濯ぎ終え、近くのエッフェル塔を仰ぐ時、改めて遠い他国にいることを実感する。

打水のひと杓貰ふ陶狸萩原まさこ

 打水という風習は日本独自のものなのか、いつ頃から始まったのかは調べたことはないが風情のあるものだと感じる。朝夕のウオーキングで遭遇しお礼をいうと嬉しそうに返礼してくれ、その奥ゆかしさが嬉しい。
 この句の打水は自宅の前なのか、はたまたどこかの店先かはわからないが、最後のひと杓を置物の陶狸にサービスしたのが愉快である。人間だけでなく陶の狸までもが涼しさのご相伴にあずかった俳味の妙。

横綱の背幅にまさる団扇かな岡村優子

 俳句を読んでいて眼に留まる要素はいろいろあるのだが、あまり見たことがない光景が詠まれていたりすると印象に残ることがある。
 その一例がこの句であろう。大相撲の地方巡業のひと駒か、あるいは本場所の土俵に向かう前の横綱とその若い付き人との佇まいを活写している。
 猛暑、盛夏のなか横綱の小山のような背中からは吹き出すように汗が流れる。付き人は少しでも涼を送ろうと巨大な団扇で風を送る。「背幅にまさる団扇」の表現が言い得て妙である。

渋団扇つかひて似合ふ齢かな窪田明

 含蓄のある一句である。夏の季語、団扇には傍題が沢山ある。白団扇、絵団扇、絹団扇、そして京、奈良、岐阜などの名がついた団扇があるが他に渋団扇もある。
 渋団扇は渋を薄く引いた丈夫なもので主に煮炊きの厨の雑用に使われる。
 さてさてこの句の作者は、この渋団扇が似合う年齢になってきたと心中を語る。私の想像ではこの渋団扇は相当年季の入ったものと思う。少し綻び色も褪せているのでは。長い人生で培われた貫禄が垣間見える一句である。

指先にとまるさつきの赤とんぼ松川洋酔

 赤とんぼはアカトンボ属のうちの体が赤いとんぼを指し、そういう名のとんぼはいない。個々の名前でいえば秋茜が代表的だ。
 高浜虚子の句に「挙げる杖の先ついと来る赤蜻蛉」があるように、思いのほか人懐こい一面をもつ。自分の体験でもゴルフの最中に頬近くを飛んできて歩幅に合わせて先導することもあった。
 掲句も先ほど見かけた赤とんぼが今度は自分の指先に留まったと喜んでいる。ある歳時記に「八十にやたらしたしき赤とんぼ 操」を見つけた。

黒揚羽林の中を漂へり山岸美代子

 蝶だけだと春の季語になるが夏の蝶になると種類も多くなり、大型で美しい模様が特徴である。なかでも黒揚羽は他を圧する風格をもち、その独特の雰囲気を愛するファンは多い。
 作者の詠む黒揚羽は前述したのとは異なり、林の中を漂っていたと表現している。薄暗い木々を縫って漂う黒揚羽、その飛び方はミステリアスである。一種独特な面を捉えた一句となった。

白日傘仄かに母の匂ひせり田村富子

 ここ数年の酷暑のせいで男性まで日傘をさしていると聞くが年老いた我が身からすると違和感を拭えない。やはり日傘、それも白日傘となれば女の方にぴったりの愛用品だと思う。
 母が愛用されていた白日傘をさすとほのかな母の匂いが身を包む。なぜかお母様の人柄までもが浮かぶ。

山の湯を包む銀河に溺れけり坂下千枝子

 田舎暮らしだった少年時代には毎晩天の川を眺めて育ったが、最近はその素晴らしさを忘れている。掲句は山峡の湯に浸かり上天一杯の天の川を堪能されているところ。銀河の見ごろは晩夏から秋とされるが、その威容は科学の進歩したいまでも神秘の謎に包まれている。銀河に溺れけり、の措辞が動かない。

凌霄の高みを揺らす風欲しき本間ヱミ子

 凌霄の花は観賞用として庭などに植えられ、その茎は垣根や樹木にからみながら高さ6メートルにも咲き上る。オレンジ色の喇叭形をした花はまさに夏を象徴するものである。
 作者は猛暑のなかの生命力旺盛な花を愛でるとともに、頂上まで揺らす風が少しでも吹いて、と思い遣る。